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Topics国内 2011年
2011年12月20日
プロ意識
2011年12月05日
「ここから。-これからを生き抜くための、心と言葉」を読んで
2011年12月02日
ラジオ
2011年11月25日
したたかさ
2011年10月31日
いよいよ今年も後2ヶ月です
2011年08月31日
続 3.11症候群
2011年08月15日
55年の想い-イエローストーン公園-その6
2011年08月12日
55年の想い-イエローストーン公園-その5
2011年08月10日
55年の想い-イエローストーン公園-その4
2011年08月08日
55年の想い-イエローストーン公園-その3
2011年08月05日
55年の想い-イエローストーン公園-その2
2011年07月22日
55年の想い-イエローストーン公園-その1
2011年07月04日
3.11症候群
2011年05月17日
レクターとモモの初顔合わせ
2011年04月26日
ブロードの営業-その3
2011年04月20日
ブロードの営業-その1 & その2
2011年04月18日
1200年に一度の地震-その5
2011年04月12日
「われらにとって美は存在するか」を読んで
2011年04月08日
1200年に一度の地震 その4
2011年04月05日
1200年に一度の地震 その3
2011年03月31日
1200年に一度の地震 その2
2011年03月15日
1200年に一度の地震 その1
2011年03月10日
いよいよ25年目に
2011年02月21日
ちょい悪おやじ・・・
2011年01月12日
インターネット雑誌「ディグニオ」
2011年01月05日
新年を迎えて

国内情報(2011年)
プロ意識

2011年12月20日

今年の年末はどういう訳か挨拶回りや宴会が目白押しで12月のスケジュールはあっという間に埋まってしまいました。
平素(1年)のサボリを1ヶ月でカバーする事自体無理な事は分かっているのですが、来年の期待も有り、どうしても毎年そうならざるを得ません。

母の手術も無事終り、12月中にリハビリ病院へ移ることになり一安心です。
ほとんど動かなくなった手も軽々と動くようになって、忘れていた排尿や歩く事からスタートですが、本人のやる気が出てきたのが何か明るい兆しのような気がします。
それでも3~6ヶ月はかかるようですが、大きな心配事ではなくなりました。

25年前に独立した時に、今は亡き電通の柴田さんから「素人とブロードの違いを見せます」なんて垂れ幕を作っていただいたのが昨日のように思い出されます。
最近プロと言う意識が自分でもそうですが、社会全体が低くなってきている気が日増しに強くなって来ています。
20年ほど前から通わせていただいている先斗町の「余志屋」の親父は姫野の顔を見てはいつも『「オーナーシェフではなくてスーパーオーナーシェフ」にならんといけまへんな!』 と「突っ込み」を入れて来る。
それはブロードウェイレター20周年号の最初に姫野が書いた事なのですが、それを良く覚えていてくださる、さすがプロ。

特に姫野は営業のプロで一生を終りたいと思っているせいか、社員のプロ意識を何とか目覚めさせたいとあの手、この手とやるのだけどどうも業務営業しか出来ない人が多い。
それでは将来とても不安ではと考えるのですが、日本では道端に倒れて「野垂れ死に」する事も無いせいかどうも緊迫感と努力が足りません。
会社名でなく個人名で勝負しろと言ってもその時だけで終ってしまう人がほとんどのようで、本当の自分の客がどういう意味なのか理解できない人が多いようです。

以前「柄谷行人」の「意味と言う病」についてコメントで書いた事が有りましたが、最近「中上健次」の本やこの2人の全対話をいくつか読み、日本文学の現実を目の前に突きつけられた感じがしました。
批評家と作家が各々プロとして生きる考え方や苦悩が良く分かるような気がします。
プロと言う人はいつももがき考え、七転八倒していて、平坦で平和な世界は一瞬なのです。
そう思うと自分の悩みなど小さいものだと思い切れるのですが、小生の努力としては、いつも手段と目的を意識しております。
平凡な人は手段を目的と勘違いしており、現状の目的を達成したら、その目的は手段となり、次の新しい目的を探さないといけません。
ここを理解して実行出来る人は本当に少ないと思います。
「目的を手段化する」と良く言いますが、これが出来ない人は進歩しない訳です。
少しでも社員にはこの考えを定着させたいと思っておりましたが、来年は改めて再(再々々?)定着をさせたいと決意をして今年は終わります。

以上

追)
母のリハビリ病院で驚いたのは、4人部屋で差額ベッド料が何と一日4000円かかるのです。
全部で月25万円程の見積もりでした。
しかも病気の種類で入院可能日数も決まっているのです。(母は最高150日でした)
日本の超老人社会がこれで良いのかとつくづく考えさせられました。

有難い 客の支援が 身にしみる
モモ様が ベッドで見送る 冬の朝
毎朝の 日の出を見れば やる気でる
止めどなく 人は生まれて 死んでゆく
老体を いつまで鞭打つ 我が人生
老体が 軋んで痛い 生きている
後少し 後少しだけの 時に賭け

オワリ

 
「ここから。-これからを生き抜くための、心と言葉」を読んで

2011年12月05日

早速12/02(金)の夕方本屋へ寄り「ここから。-これからを生き抜くための、心と言葉」を買い読みましたのでレポートしておきます。
電通で元コピーライターをしてらした山本高史さんと有名な鎌田實医師の共著でした。
(2011/10/05 ベストセラーで発行 ¥1,365)
内容は是非お読みいただきたいので感想のポイントだけにしますが、とても読み易く、平易な文章で書いて有るのですが、内容はかなり濃い物で、読み手の力を試されているような気がします。

山本さんの切れ味するどい「言葉」と鎌田医師の「心」が素晴らしくも微妙なハーモニーをかもし出しています。
やはり日本人の大切な相手の思いやりや気付きが日本人の心から無くなってしまったのでは無いか?
3.11で「がんばれ日本」と言うのは基本的におかしいのではと言っているのです。
とにかくご自身でお読みいただきたいと考えます。
これからの日本にとって大切な「心と言葉」を見直すチャンスを与えてくれると思います。
来年はきっと良い日本になれると思わせます。

以上

追) マイペースで作っている川柳(?)も5000作を超えました。
1日5作を目標にして来ましたので始めてから3年近く経った事になります。

5000作の記念は
「報連相 確認出来て 1人前」です。
この習慣で前よりは辞書を使わず漢字を思い出し書ける様になった気がします。 又、暇な時間も無くなった様で、しかも集中力と持続力も増加したように思います。

川柳を 身近に置いて ボケ防止
役職が 鎧となった サラリーマン
就社して 役職解ければ ただの人
格差とは 努力の差だと 思うべき
努力して 努力続けて 努力する
集中と 持続力とが 人磨く
絆とは 人の心の 気付きなり

オワリ

ラジオ

2011年12月02日

自宅から駅(5分)、自宅から乗馬クラブ(15分)の間、車の中でラジオを聴くことが有り、ここ1ヶ月程でNHK第一かFMのJ-WAVEか忘れましたがとても面白く、是非皆さんに3点ご披露したいと思います。
「たかがラジオ、されどラジオ」3.11で見直されたラジオでした。

ラジオ1
ストレスを雨に例える話がありました。
話していたのが女性のコンサルタントのようでしたが、前後は全く聞いていなかったので分からないのですが、内容があまりに面白かったのです。
人間にはストレスは大切なものだと言う例えが、自然の雨にストレスを考えるとわかりやすいと言うのです。
確かに毎日快晴で風もなく穏やかな日がずっと続くのが良いように思えるのですが、雨が降らないと地球上の全ての生き物が死に絶えてしまうわけです。
適度な雨があってこそ人は生きられるのです。
ただ雨にも色々有って、時には帽子や傘が必要だったり、コートが必要だったりするわけです。
上手い例えだなあと思わず思いました。

ラジオ2
ジャーナリストの鳥越さんのお話し
テレビにもたくさん出演なさっていてコメントする必要もないくらいな人ですが、末期(第4フェーズ)の大腸がんを手術し、肺に転移、肝臓に転移して各々の手術をして最近本を出されたようなのですが、「自分は癌で良かった、3.11で亡くなった方々は周りの人に何の言葉もお別れも言えずとても悔しい思いをしているだろう。自分はなんと幸せな事か」と思ったそうです。

ジャーナリストとして様々な人にインタビューしてきたが、初めて自分をインタビューして、分からない時は手術の時だけと、その間はビデオを撮ってもらったのだそうです。
まだ生きてるからこその迫力ある言葉でした。
3.11がいかに社会的にも精神的にも大きな影響を与えたと思われる一瞬でした。

ラジオ3
言葉の重みと言うある作家と鎌田實医師  共著の本のコメントでした。
(ここから。-これからを生き抜くための心と言葉 2011年10月ベストセラーズ\1,365.-らしいので一度読んでみます。)
ラジオでは共著の山本高史さんのインタビューだったらしいのですが、言葉の重みと人の心についていくつか語っておられました。
自分でも人と人を繋ぐ大切な言葉を大切に使おうと良く言っているのですが、その重さを3.11を例としてさらに強く感じさせるのでした。

追)今日は12月1日。いよいよ又、あと一ヶ月で取りたくない年を取ると思うと少し気がめげます。
年齢の二乗に比例して時間の経つのは早くなると言いますが、本当でしたね。
又、来年は今年よりもっと良い年であることを祈るのも良く分かります。
皆様と一緒に良い年を迎えましょう。

来年に 期待膨らみ 鬼笑う
またしても 何もしなくて 年を取る
お薬を 売るほど貰う お年寄り
紅葉の 色悪くした 温暖化
新幹線 句作か駄眠に 明け暮れる
もの言わぬ 車窓の富士を 友にする

オワリ

したたかさ

2011年11月25日

今年の「うさぎ」年は早く去ってもらいたいと思っていたところたまたま携帯につけていた湯島天神の鈴が切れたところに来年の干支の「辰」を頂いて、早速付ける事にした。
11月の初めでちょうど新しい契約をした会社のオーナーが来日してバタバタしたのですが「とても面白い」とか「久しぶりにヒットだね」との声が有って運が向いてきたような気がしてます。
それもこの「辰」のお蔭かなと思って大切にしようと考えております。

    

最近の日本や世界のNewsを見て世界の「したたかさ」を感じる事が有ります。
日本の場合は「したたかさ」ではなく「重箱の隅をつつく」的な感じがします。
ギリシャやイタリアなどの南欧の危機が真にそうです。
ベクトル的に180 °違う事を平気で言って、少しでも自分たちに有利になるように極限まで戦う訳です。
資本主義400~500年の歴史が有り、しかも陸続きで有れば当然の事とも思えますが、我々日本人はとても理解しがたいところであります。
又、日本人と韓国・中国の人々との違いも陸続きの切迫感が無い所が大きいのだと思います。
日本人として、又、世界人として物の見方、考え方、行動の仕方を改めて考えさせられ、いかに自分が流されないでしっかりした行動をしなければいけないと覚悟を新たにする事になりました。

追)大阪方棋士、坂田三吉や阿部定などを書いて有名な作家の織田作之助が「新聞は毎日世相を描き、政治は世相を論じ、一般民衆も世相を語っている。
そして、新聞も政治家も一般民衆もその言う所はほとんど変わらない。
いわば世相の語り方に公式が出来ているのだ」と語っているように日本の国はこの公式を壊していかないと世界で生きられない国となってしまうと思われます。

モモの目は 天国一緒と 言っている
天国で どんな仕事が 有るのやら
いつもより 急ぐと必ず 忘れ物
暇つぶす 事も出来無い 暇男
頑張るは 誤魔化し言葉と 覚えたり
レクターが 厩舎を出せと 目で合図
守破離だと あれだけ言っても 理解せず
ケチケチを 通せる会社が 生き残る

オワリ

いよいよ今年も後2ヶ月です

2011年10月31日

今年もいよいよ残り2ヶ月となりました。
3.11に始まり最後は何で終わるのでしょうか?
自然と言うか、地球の大きさと力を思い知った10ヶ月でしたが、あと2ヶ月は人間の欲望の果てに見えるものは何かを教えてくれるのかもしれません。

日本の技術力と言うか改良と言う世界で、やはり日本は暫くTopを走る事になると思うのですが、日本のこれからの道をどうするのか極論すると地球の将来が日本にかかっているような気がします。
別の言い方をすると日本の文化が世界に通用していくかどうかと思います。

鬼の霍乱で先週28日(金)は風邪で会社を休みましたが、そのお蔭でアメリカの野球のワールドシリーズの第6戦をゆっくり見ることが出来た。
ご存知の方も多いと思いますが、9回裏2アウト2ストライクまで行って同点のツーランホームランが出て9対9になり、11回裏に同じ打者のフリースがサヨナラホームランを放ち、セントルイス・カージナルスがテキサス・レンジャーズを破り3勝3敗の5分に持ち込むもの凄い試合を見た。
真に球史に残る迫力あるゲームでした。
結局翌日はカージナルスが勝ち、5年ぶりにワールドチャンピオンになったのです。(MVPもフリースが取りました)
姫野も5年前にセントルイスに行き、カージナルスの赤いジャケットを買い、今もレクターに会いに行く時着ております。
こんな試合を見ていると日本のプロ野球が遊びのような感覚になり、ほとんど見なくなってしまった。
NHK-BS放送も罪な事をするものと思うのでした。

最近見るテレビと言ったらスポーツ類か日本や世界の動、植物の特集や世界遺産などと限られてきていて、どうもお金や世界経済などには興味がなくなってきて、そろそろ日経新聞も要らないかなと思うときもあります。
特にNHKのBSで午前11時半過ぎから株などの情報を出しているけど誰がそんなものを必要とするか?又円相場なども何銭云々と言う必要があるのか不思議な気がしてます。

話は変わりますが最近友人たちに刺激されて自転車を始めました。
少しサボってパナソニック(旧宮田工業…松下幸之助の初めての仕事は宮田の自転車のライトだったとか)の電動アシスト自転車「ハリヤ Hurryer」を買い、休みの日には10~20km、鶴見川のサイクリングロードを楽しんでます。
自転車をやると四季を感じると言われていたが本当にたくさんの木々や水鳥を見ることが出来た。
早くマラソンと同じ42.195kmを走ってみたいと思いますが先週風邪を引いてかなりしんどい思いをしてます。
多分自転車で汗をかいて放っておいたせいかと思ってます。
鼻風邪なのですが、どうしても夜の仕事(?)が多い為なかなか治りません。
お酒と薬も相性が良くなくて困ってます。
暫くお酒を休憩にしたらよさそうな物ですが、暗くなるとついついお酒を飲んでいるわけです。

母もようやく明日11/1日に首の手術をする事になりました。
完治することはないと思うのですが自分の身の回りは自分で出来るようになれれば楽しい余生となると思うのです。

追)ラーメンの美味しい季節になってきましたが、7月に富山の大喜へ行ってきました。
富山のブラックラーメンの元祖として有名ですが、西町の発祥の地のお店がお休みだった為別の支店(全部で4店)へ行きましたが昔の懐かしい味ではありませんでした。
食べ物は時と場所と人を選ぶと良く言いますが、真にその通りでした。
夢にまで見た大喜のラーメンは2度と食する事は無いと思いました。
物心ついてから食べた物を無くす事は少しほろ苦い味となりました。

空を飛び いびきをかいてる レクター号
生きるとは 時間潰す 事じゃない
マグロ的 人生送るも 旨からず
日本食 自腹で食えない この値段
酒量減り 年を感じる 長い夜
毎日が 日曜日となり 休みなし
酒飲めば 人の器が 丸見えに
勢いを 酒に借りれば 二日酔い
一瞬も 同じ時無し 我が人生

オワリ

続 3.11症候群

2011年08月31日

前回85歳の母親の事を書かせて頂きましたが、入院した病院(横浜総合病院)で何とエコノミー症候群となり、慌てて血液をサラサラにする薬を投与され、一命を取り留めました。
入院して何故そんな事になるのか、頭にきて担当医に面会を求めたが全く後ろ向きで今の内に親族に会わせた方が良いと言う医者だった。
後日知ったのですが、神戸大震災で車の中で寝泊りしていた若い人々が結構エコノミー症候群で亡くなっているのだそうです。
脚にできた血栓が肺に詰まり、あっという間に死に至るのだそうです。
母は微熱が出て、酸素のチューブを鼻に入れましたが、結果的には最悪のケースは免れて入院当時のままとなった。
とにかくセカンドオピニオンにチェックをお願いする為の準備を始めましたが、本人が「良くなろう」とか「元気でもう一度歩きたい」と思わないのが不思議でなりません。
それが齢というものなのでしょうか?
せっかく車椅子でも生活できるようにエレベータまで設置し、新築した家も主が居なくて寂しそうです。

その家で母が庭で捕らえた「桜文鳥」が一人で居りました。(名前もサクラです)
お盆の暑い時、西日が当たる為、モモと同じクーラーの部屋に入れてやろうと準備をしていたら急に目を閉じて止り木から落ちてしまった。
あまりに一瞬の出来事で面食らいましたが、すぐに扇風機とクーラーの前で10分程マッサージをしたら生き返った。
それ以来姫野の部屋で「モモ」と「サクラ」と一緒に眠っているのですが、両方とも4時過ぎ(外が明るくなると)から騒ぎ始め「目覚まし時計」となっています。
「サクラ」も命の恩人と思っているのか?とても姫野に懐いて盛んに鳴く様になった。

   

モモはもうすぐ16才を迎える事も有り、かなり体調が弱ってきて、初めて「夏バテ」となり食事も摂らなくなりましたが、「サクラ」がきて、たまたま天気が涼しくなったせいも有り、対抗意識がでてきて食欲も出てきた。
でも、一日の3/4は眠っているようです。
色々有って月2回は医者に行ってます。
2人(?)との限られた時間を有意義に楽しみたいと思います。

話は飛びますが、イエローストーンに行ってからすぐ夏休みを取り、自分の生誕の場所に行きたくなり4泊5日で、長野-富山-新潟を1400km程走ってきました。
7月25日から出発しました、丁度北陸が大雨だったので中止する事も考えたのですが、次は無いと思いスタートしたのです。
とにかくすごい雨でした。
でも、不思議と車の外へ出ると雨が上がっているのです。
最初に泊まった日本秘湯の会の長野県七味温泉「渓山亭」は白濁の湯でとても良かった。
川の近くに有る大露天風呂「恵みの湯」も最高でした。
でも、ゆっくりお湯に浸っていていざ出ようとするとお尻とか手や足が真っ黒になるのには笑ってしまった。
志賀高原の近くになり、リピーターが多い名湯と思った。
やはり、山の源泉に近い所ほどいいお湯が有るようです。
肩こりなどすっと治る(姫野は肩こりが無いので分かりません)と三浦半島の茅ヶ崎から来られたご夫婦がおっしゃっていた。

富山の自分の生まれた地域は全く跡形もなく全てが変わっていて何の痕跡も残っていなかった。
岩瀬浜の海水浴場にかすかな思い出があった。
かえってすっきりした感じがしましたが、海の近くのスーパーで鯵の刺身と白海老の昆布巻き(黄色のとろろこぶ)を見つけて腹いっぱい食べた。
富山の魚の味がして久しぶりに「きときと」という言葉を思い出した。

糸魚川の龍雲荘に一泊の後、最終日は新潟の五泉の近くの「清廣館」へ泊まった。
阿賀野川の氾濫で川は海のようになっていた。
ここは弘法大師開湯として1200年の歴史が有るそうですが、新潟最古の湯と言われ、昭和3年に建てられた木造の3階建てに一人で泊まった。
お湯はあまりにぬるく湯量も少なく、2度行く必要は無いと思った。(温泉としては)
帰りは高速の通行止めや速度制限が多くあり、どのように帰るか悩んでいたが、高速に乗る直前に磐越道で白河経由でとカーナビの指示に従い順調に帰ってきた。
前日通行止めだったのがうそのような快晴でした。
相変わらず「天は我を見放さず」と一人微笑んで今年の夏も終わりました。

   

3発も 原爆くらう 平和国
移動中 大雨降ってる 晴れ男
夏休み 取って見れば 雨続き
夏バテの モモに手持ちで 食べさせる
雷と 一緒に入る 露天風呂
熱中症 あまりに水分 過取症

オワリ

55年の想い-イエローストーン公園-その6

2011年08月15日

午後8時頃やっとB&Bに着き、ゆき(シェパード)の出迎えを受け、又バーベキューの食事をした。
今回はしっかりビール小瓶3本飲んだ。
あまりの夕方の陽射しの強さで顔や腕が真っ赤になっていた。
帽子など全く役に立たなかった。
帰りの回りの山々の雄大さにも圧倒された感も有りましたが、3日間で1000マイル(1600km)程も走っており、かなり疲れたというのが本音でした。

   

   

   

   

ここでイエローストーン公園の案内を少々。
地球の歩き方『アメリカの国立公園』からの引用ですが、

Ⅰ.熱水現象の仕組み

 イエローストーンに降った雨や雪は、透過性の岩盤を通り、約500年かけて地下深くしみこんで行く。3000m以上地中に下りると、260℃以上の高温で熱せられる。しかし、高圧のため気化することができず、岩盤の割れ目を通って急上昇する。これが熱水現象だ。こうした現象は園内に1万あるといわれ、世界一の集中地域になっている。
  熱水現象は、地上への噴出の仕方によって名称が変わる。

温泉Hot Springs

広義では間欠泉なども含めて温泉だが、水が溜まって温泉プールになっているものを指すことが多い。温度や含有物質によってさまざまな色があるのがイエローストーンの特徴。

間欠泉 Geyser

熱水が地表まで気化せずに噴出するのが間欠泉。合計約300、世界の間欠泉の約3分の2がイエローストーンにある。周期的に熱水を噴出するが、噴出間隔はさまざま。噴出口の形態により、噴出口の周囲に円錐状に沈殿物が堆積するコーンガイザーCone Geyserと、池の中に噴出口があるファウンテンガイザーFountain Geyserに分けられる。

Ⅱ.温泉の色の正体

 モーニング・グローリー・プールの魅惑的な色彩やエメラルドスプリングスの透きとおるような青など、温泉の色はとても不思議だ。どうもこの色は温度と密接な関係にあるらしい。
 あまりにも高温の温泉では生物が繁殖できないため、空の青がそのまま映る。例えばアッパー・ガイザー・ベイスンのクリスタルプールなどがこれにあたる。
 もう少し低温になると藻類とバクテリアが発生する。そして、グリーンや黄色の温泉が誕生するわけだ。
 またプール周辺や間欠泉などに見られるドロドロした色は沈殿した鉱物の色。黄色は硫黄、オレンジやブラウンは酸化鉄などの色だ。

Ⅲ.世にも珍しいバクテリア

 イエローストーン国立公園は地形的にバラエティに富んでいるばかりでなく、そこに生息する動植物も多様で魅力的だ。
 なかでも最も不可思議な生物は、スルフォバレスというバクテリアで、ここイエローストーンにしかいないといわれている、このバクテリアは酸素を必要としない、というよりも酸素を嫌う嫌気性バクテリアで、世界最古の生物のひとつ。酸素に満ちあふれた地球上ではほかに生きる場所がなく、90℃以上の高温でしかもpH1という強酸の泥の温泉、マッドポットの中だけに生息しているという変わりものだ。
 このほか、イエローストーンには高温の温泉だけに生息するバクテリアも多く、このバクテリアと藻類が温泉の周囲を黄色、オレンジ、赤、茶色に彩っている。

引用はこれくらいにしますが、確かに山に来たので食物は美味しくなかった。
どちらかと言うと餌に近い(失礼!一般的アメリカ料理というべきか)物でしたが、自然の素晴しさと時間という物の考え方について再考させられました。
真に「目からうろこ」の4日間でした。
明日は2時起床の為、お風呂に入り、必死の思いで荷物を整理して、11時過ぎには眠った。
朝起きて家の外に出ると久しぶりに見る銀河が南北に光り輝いていた。
3時出発でボーズマン空港に4時過ぎに着き、6時の便でデンバー経由でロス空港に向かいました。

空港でしっかり荷物検査をされて、やっとバックに押し込んだモモやレクターのお土産を広げさせられ説明を求められた。
全部で10点も有ったので変なヤツと思われたのだと思う。
朝早く暗いうちに出て来たので、ガイドの紀代美さんがしっかりおにぎりと漬物とシャケの弁当を作ってくれていて、空港の売店でDecaf(カフェイン抜きのコーヒー)を手に入れ美味しくいただいた。
田舎のせいか、朝早かったせいか売店にDecaf(decaffeinated)が無かったのに店員が「ちょっと待って、今入れるから」と言ってくれた。
飛行機の中ではすぐ爆睡した。目が覚めたらデンバーに着陸する所だった。
この飛行機がロスまで行くのか、乗り換えるのか全く分からなかったので、通路の隣にいた淑女に聞いたら前のおじさんが乗換えだと親切に教えてくれた。
ゲートを出て、飛行機の出発予定のテレビを見ていたらわざわざその淑女(学校の先生タイプでした)が傍まで来てくれて「見つかった」と念を押してくれた。
どこの国の人も皆同じように親切だなあと改めて思った。

今回体調が悪い中、無理して55年の想いを達成する為イエローストーン公園に来た事が夢のように感じられました。
あの4日間はドリカム(ドリーム・カム・トゥルー)だったはずなのに未だに夢を見ているような気がしてます。
次回は自分で車を運転して自由に見て回りたいと思います。

追)

デンバー空港に有る「赤い馬」(Red Horse)でいつもお土産を買う。
姫野のお気に入りはインディアンのドリーム・キャッチャーで「夢を現実に」の願いを込めて色んな人に差し上げている。
今回は小さな蹄鉄を(米国ではラッキーが来る)を飾りとした物も手に入れました。
皆様も是非デンバーに寄られてドリーム・キャッチャーを買われ、ドリカムを実現してください。

   

オワリ

 

55年の想い-イエローストーン公園-その5

2011年08月12日

いよいよ4日目の最終日となりました。
目玉だったオールドフェイスフルの間欠泉を昨日に引き続き午前中ゆっくり見てその周辺のアッパー・ガイザー・ベイスンを2時間程かけて歩く。
とにかく快晴で暑く陽に焼けた。   

      

   

あまりの広さとたくさんの間欠泉と温泉プールにただ驚くばかり。
特にプールは温度によって色が異なり無色透明は沸点に近く、次に青、次に赤や黄色などバクテリアによって様々な色に変化していた。(高度が高い為沸点は93℃だそうです)
人間が投げ入れたコインで色が変化したところもあったようです。
(一番奥のモーニング・グローリー・プール)

      

      

      

      

   

   

   

次にミットウェイ・ガイザー・ベイソンに向かう。
ここには直径113mという国内最大のグランド・プリズマティック・スプリングが有名で、湯水面からの蒸気がバクテリアの影響で白・赤・黄色に見えるのです。
この日は快晴のせいも有り、ガイドも初めてこれ程の物を見たと言ってくれて感謝された。

   

   

   

      

一方通行の周遊道路を通ってファイアーホール・キャニオンへ。
オールドフェイスから流れてきたファイアーホール川が最後に滝になる所で初めて紀代美さんの写真を撮らせてもらった。
本人にメールで日本から送ったら実物より100倍綺麗と言ってくれた。
(写真は愛情を持って撮ると綺麗になるものです?)

   

途中あちこちで同じような景色を見て少し飽きてきた。
最後にマンモスホットスプリングスへ。
ここは最初に北口から入った所に有るのですが、急な登りのため帰りに上から歩いて下っていくと良く(ガイドは車で下に先に行って待っていた)幾重にもテラスが有るように見える。

   

   

最後にリバティキャップを見て帰路に着く。
石質のような形ですが温泉からの沈殿物で出来ているのだそうです。
陽射しが強く顔が痛かった。

   

北口ゲートを出て2時間程かけてB&B、途中3~4千m級の山々が見送ってくれた。 とにかく大満足の旅でした。

   

   

続く

 

55年の想い-イエローストーン公園-その4

2011年08月10日

昨日の午後から「イエローストーンにやっと夏が来た」と色んな人が話していたが、素晴しい天気となった。
山へ来て天候に恵まれなければ99%来た甲斐が無いと思っていたのでいつもの事(姫野は晴れ男)と言いながら大変嬉しかった。
ただ、あまりに暑く日も強いのでローストチキンのように顔が焼けてしまった。

   

3日目は公園西口から入園してファイヤーホール滝を見に行くも、もの凄い水量で見る影も無いとガイドは言う。
普通は滝の上から滑り台のようにして下まで来れるのだそうですが、ゴーゴーともの凄い音と濁った水でそんな事を想像すら出来無かった。

   

しばらく行くとアザレイク(ISA)という雪融け水の小さな池が有り、ここが有名な大陸分水嶺なのです。
西と東に同時に流れていて西へ流れ出した水はファイアホール川、ミズリー川、ミシシッピ川となってメキシコ湾へ、東へ流れ出した水はスネーク川、コロンビア川となって太平洋へ注ぐと言う面白い場所なのです。(左右逆転しているわけです)
高度は2500m~3000m前後でまだ雪が大変多く残っておりました。

   

自転車のおばちゃん達が居りましたが、良くここまで登れたなと思ったらすぐそばにサポートの車があり、一番上から下りを楽しむのだと笑ってしまった。

   

いよいよ最大のポイントの一つである「オールドフェイスフル間欠泉」へ向かう。
間欠泉の前に有名なOld Faichtull Innが有り、昔の古いロッジそのままで残っている。
1904年に建てられログキャビンとしては世界最大だそうで全て地元の木で作られている。
トイレ、バスも共同のようで$100程で泊まれるようですが、1年先まで予約で一杯なのだそうです。
近くのホテルも$200~$300(バス、トイレ付き)するのだそうです。
間欠泉は1時間~2時間の間に噴出し、毎回予定時間も発表されている。
名前の通り「Faichtull=忠実な」噴出時間も一定のようです。
毎回定刻に噴出する間欠泉もあれば1日一回、週一回、年一回、何万年に一回など様々なケースが有るそうですが、まだ全体には把握されていないそうです。

   

   

   

間欠泉を満喫してイエローストーンレイクに向かう。
日本の琵琶湖の半分程の大きさですが、平年より1~2m水量が多く、フィッシングコーンという昔釣り人が釣り上げた魚をその中に入れて茹でてすぐ食べられたと言う温泉も水の中でした。

       

   

   

その後最もバイソンが多くいるというヘイデンバレー(平原)に行く。

       

   

   

   

高級なホテルと言われる黄色一色のLake Yellowstone Hotelで食事だけをして、グランドレイクロッジに泊まる。
今回は変わったものとしてバイソンのステーキとエルクのサンドイッチを食べたがバイソンはカスカス(脂肪が少ない)ので美味しいと言えなかった。

   

   

たくさんの温泉プールや噴出する温泉などを見たがとにかく広くて大きい。 シャワーしかないロッジでしたが回りの雪はもの凄かったです。

   

   

又、公園の鳥(剥製)もご覧下さい。

   

   

   

続く

 

55年の想い-イエローストーン公園-その3

2011年08月08日

2日目は晴れたり曇ったりの天気でしたが、いかにも高山地区の天気でした。
ガイドは3日間でイエローストーンのほとんどを見せてくれる予定でスケジュールを組んでくれたようです。
ツアー工程表です。

1日目 空港到着
ペッツマート(ペット用品店)
マードックス(馬用品店)
バッテリーズプラス(バッテリー店)
宿泊B&B
2日目 イエローストーン国立公園北口から入園
タワー滝
ダンレイブン パス
グランド キャニオン オブ イエローストーン
ブリンク オブ ザ アッパーズ
アーティスト ポイント
アウトルック ポイント
キャニオンビジターセンター
ノリス ガイザー ベイスン
ウエスト イエローストーン
宿泊 GRAY WOLF INNG SOITES
3日目 公園西口より入園
ファイヤーホール キャニオン ドライブ
オールドフェイスフル間欠泉
ウエスト サム
イエローストーン レイク
フィッシング ブリッジ
ヘイデンバレー
グラントビレッジ
宿泊 グランド・レイク・ロッジ
4日目 アッパーガイザーベイスン
ミッドウェイガイザーベイスン
ファイヤーホール ドライブ
ファウンテン ペイント ポット
マンモスホットスプリングス
公園北口より公園外へ
宿泊 B&B
5日目 空港より出発

   

イエローストーンの石門が有る北口から入園

   

50年ぶりといわれる雨と融雪で水量が多くフィッシングとラフティングは全て中止されていましたが見るほうからすると水量が多くものすごい迫力でした。
ビジターセンターでいきなりエルクに会う。
自然の宝庫との予感と運の良さを感じました。

   

   

ガイドは優しい滝を見て欲しかったようで残念そうでしたがイエローストーンの名前のいわれとなったグランドキャニオンオブイエローストーンは大満足でした。
望遠レンズを使いカメラでその大きな渓谷を撮っていたら何と塔の上に白頭鷲の巣が有り子供がいるではないですか。

      

      

だんだん天気も良くなり素晴しい一日となりました。
途中の道端ではエルクやバイソンやブラックベアに会う事も出来た。

   

   

バイソン(バッファロー)は車のすぐ横を通ったり、道をたくさんの群れが横切ったりするのでその度に大変な交通渋滞に巻き込まれます。
バイソンはとても大人しく、愛嬌が有るように見えるのですが、つい車から出て写真を撮ろうとして年間数十人が襲われてしまうのだそうです。
バイソンは人間との距離をしっかり測っているのかもしれません。
1日目は北ゲートから入り夕方西ゲート出口近くのホテルに一泊。

   

   

   

   

ホテルは中国人が溢れていましたが、その割りに静かでした。夕方7時に「Grizzy Bearと狼の保護センター」に一人で行く。
今は夜9時頃まで明るく、たくさんの人が来ていました。
もの凄い「ブヨ」の大群の中、グリズリーが石や木を掘り起こし、エサを食べていた。(多分わざわざセットして有ったのでしょう)
その迫力に驚いてしまった。

   

   

   

狼も二つの群れがガラス越しに手の届くほどの所にいる。
やはり犬の雰囲気とは全く異なっていました。
イエローストーンは1930年代狼が絶滅して自然体系が壊れてしまい人間が改めて輸入して1995年頃から繁殖活動をしているので有名です。
狼がいなくなって鹿やエルクが大発生し森が破壊され、猛獣類も激減したのだそうです。
現在20ファミリーほどの狼が定着しているのですが、今度はあまりに狼(現在は100頭程に減ってます)が増えてエルクなどが減っているのだそうです。
自然のバランスを維持するのはとても難しいようです。
これも先住民族のインディアンの仕事だそうです。
狼は5年ほどしか生きないそうですが、全てに番号が振られ管理されていました。
3日目はいよいよ55年の想いの「オールドフェイスフルの間欠泉」とご対面でした。
そんな興奮よりもかなり疲れたせいかビール小瓶1本も一口飲んで残してしまって眠ってしまった。

続く

55年の想い-イエローストーン公園-その2

2011年08月05日

初日は朝6:30にラスベガスを飛び立ちデンバーでトランジットしてボーズマン空港に午後3時にやっと着いた。
ボーズマン空港はとても小さな空港でしたが出口を出てすぐガイドのグラント紀代美さんが「姫野さん」と声をかけてくれた。
「今日の午前中までずっと雨で天気が心配」と言われたが姫野は「台風も避ける」と言って笑っていたらその後ずっと晴天が続いた。

   

   

体調は相変わらず悪かったが、さっそくモモとレクターのお土産を買うことにした。
大体アメリカで買うと日本の半値程なのでついついたくさん買ってしまい帰りどうして持っていくかとても悩むのだけれど一生に一度のチャンスと思い買ってしまう。
又、今回良い写真を撮りたかったのでキャノンのデジタル一眼レフと望遠レンズも持参した。
所が、バッテリーとバッテリーチャージャを大きなトランクに入れたまま最終訪問先のロスのヒルトンホテルに送ってしまい、先ずバッテリーチャージャを買いたいとガイドの紀代美さんにお願いして約2時間程かけて7件周り、やっと最後のバッテリー屋さんにグローバルタイプ(色んなコネクターに接続できる)を$20程で手に入れられた。
変な話ですがこんなに感激して、こんなに嬉しい事は久しぶりで有った。(ガイドに感謝感謝)
キャノンのカメラのアメリカタイプのバッテリーは日本と異なる事も良くわかった。

   

ガイドのグラントさん一家はモンタナ州リビングストーンに住んで日本人向けにB&Bとガイドを業としていた。
昔、「大草原の小さな家」という番組が有りましたが、真にその通りでした。
ご主人のディビットさん、奥様の紀代美さん、息子のイアン君(14歳)とカイ君(12歳)、それに娘のゆき(8歳の白いシェパード)で、面白かったのは奥様の紀代美さんだけ日本語でご主人とは、奥様は日本語、ディビットは英語で会話していて、2人の息子はほとんどネイティブの英語でした。(ディビットは紀代美さんを社長、社長と呼んでいた)
舗装道路から1km程離れていて、その角に郵便ポストが有る懐かしい風景でした。(そのデコボコ道にポストの数だけ家があるわけです)
自宅は20エーカー(約2万4千坪)の敷地に2棟のログハウスがあり、回りには様々な野草の花が咲き乱れておりました。
特に今回(6月の中旬)は「ロバの耳」と言われる黄色い花が回り一面に咲いていました。
(葉がロバの耳に似ているのだそうです)

   

   

一般的にアメリカでは10エーカーに一頭馬を放し飼いしていて草刈をさせるのだそうです。
回りの家にものんびり馬が草を食べている姿がたくさん見られました。
馬もこの様に生きられれば本当に幸せだろうとフッとレクターが可哀想になってしまいました。
今が一番良い時期なのだそうですが、姫野が来るまで天候が悪く、雨も多く川下りで何人も死んで、ラフティングは中止になっているのだそうです。

   

リビングストーンと言えばノーザンパシフィック鉄道の拠点で200両を越える(2㎞以上)貨物列車が行き交うのを何度も見ました。
アメリカの雄大さと何となくのどかな古き良き風景が感じられた。

とはいっても5月~9月までがシーズンで10月~4月までは寒さと雪に閉ざされるのだそうです。
紀代美さんはリビングストーンは全米で最も貧しい町だと言っていました。
ディビット家も冬には庭に入って来る鹿を射とめて食するのだそうです。
又、車保険に鹿保険のオプションがあってほとんどの人が入るのだそうです。
特に夜はライトに光る目を見つけたら徐行運転をしないと危ないのだそうです。

   

夜はディビットの作ったバーベーキューを家族と共に食べた。
ガイドの紀代美さんは熊本で英語の先生をしていて、ボストンに研修で6ヶ月程いる時にご主人と知り合ったのだそうです。
10年間熊本にいて資金を少しずつ貯めて土地を買い、家を数年間に渡って作ってきたのだそうです。
体調が悪くビール小瓶を2本飲んで早々にお風呂に入って眠ってしまった。
明日4時にスタートしていよいよイエローストーンへ行くわけです。

追)ラスベガスでとても面白かったのは、ライオンの像が入り口に有る、有名なMGMホテルに行ったら何とフロントの前に3匹の牝ライオンと1匹の赤ちゃんライオンが居た。
人にとても懐いていて飼育係が牝ライオンと遊んでいた。
姫野が長い間の夢で有る「ライオンを枕に眠ってみたい」が現実になるかも?
早目に実現できるような予感がして来ました。
来年は「百獣の王」ライオンと是非遊んで見る企画を何としてでも実現させたいと強く決意しました。

いつに無く 心穏やか 成田です
アメリカで 心の 豊かさ 見つけたい
あまりにも 句作出来ずに 不作なり
眠たいと 思う前に もう眠てる
人間の 器を見せる 大仕事
酒飲んで 楽しくない友 多くなる
気がついて 天国にいるのが 最高だ

続く

 

55年の想い-イエローストーン公園-その1

2011年07月04日

イエローストーンへ一生に一度は行きたいと想いながら55年の時間が過ぎてしまいました。 何と半世紀を越えているとは自分でも驚いています。
そんな意味でも単なる感想文やレポートでは無く、自分なりに熟成させたいと思い1ヶ月程寝かせておいた。
1ヶ月程経ったのでそろそろ興奮状態も収まり冷静になって来たのでレポートしたいと思います。

イエローストーン公園は御存知の方々も多いと思いますが、米国(世界でも)で初めて国立公園になった、間欠泉で有名な所です。
ワイオミング州・モンタナ州・アイダホ州の3つの州に囲まれ、大きく5つの地域に分かれており、広さは日本の四国の半分くらいの大きさだそうです。

1.マンモスカントリー
2.ルーズベルトカントリー
3.キャニオンカントリー
4.ガイザーカントリー
5.レイクカントリー

   

      

   

6月から9月がシーズンで年間300万人以上が訪れるのだそうです。
日本の屋久島が世界遺産に登録されて年間30万人程度ですので、いかに人気があるかわかります。
今回は5つの地域全部を回る事が出来ました。
アメリカ人は世界遺産に興味が無いそうで、日本人との熱の違いを強く感じました。
日本もヨーロッパ主導の世界遺産の登録に邁進するのでは無く、日本の国立公園の整備とアピールを地に脚をつけて欲しいものです。
この公園は50万年前に大爆発しているそうですが、65万年周期で大爆発を繰り返していて何とその影響はメキシコ湾にも及ぶそうで、気温も数年間10度は下がるのだそうです。
そんな話を聞いていると今回の3.11も大きな時間の流れの中でいかに小さなものなのかわかります。
帰りの飛行機の中で、「原発に関して安全と言う言葉を使うなら、例えば30分で全てをシャットダウン出来、何十万年も封鎖できると言う事だろう」と考えてしまった。
そんな事を思う程、地球の時間と歴史の深さと大きさを感じてしまった旅でした。

イエローストーンの案内書などには安いツアーのせいか、片道ツアーバスに6時間とか16時間乗る案内が多いのですが、今回ボーズマン空港の近くのB,Bで泊まり、公園内で2泊、帰りもB,Bで1泊して都合4泊5日の単独ツアーとしました。
たまたま日本語でのガイドを探していたら熊本の中学校で英語の先生をしていた、グラント紀代美さんがボーズマンでガイドをやっている事がわかり、何回かのやり取りの末お願いすることにしました。次回から詳しいレポートをいたします。

続く

   

3.11症候群

2011年07月04日

今年の3月11日の大地震で直接・間接、様々な影響が皆様に有った事と思います。
コメント出来るレベルでは有りませんが、我が家でも85才になる母親が6月上旬から体調を崩し、6月中旬から入院となりました。
発端は3.11からテレビに釘付けとなり、首や肩がこってしようがないと盛んにボヤいていたのですが相変わらずグランドゴルフや詩吟に出かけたりして平日はほとんど家に居ない程でした。
土曜日のコーラスの帰りに友達数人と母の自宅に集まり、夕方までワイワイやっていたのですが、5月になると都合がつかない友達が多くなり、この会も自然消滅となったようです。

母は6月初めに歩きにくく手がしびれるといい始め、姫野に「だから朝必ず散歩しなさい」と言われていたのですが、何か外に出ないまま、6月6日は姉の主人の三回忌があり、歩きにくいので車で送り迎えをして、それでもびっこを引きながら歩いて1日が終わった。
ところが、6月24日、姫野がアメリカ出張中に入院となった。(家から5分病院で助かってます)
入院先は脳神経外科。首の神経を脊髄が圧迫していて手術を前提に検査が続いてます。
歩けない、手が使えないで、ついにオムツになってしまったのですが、本人は食欲も有り、気力も出てきて、1人で家に居るよりは安心なようです。
周りの方々からは、あんなに元気だったお母様はどうなさったんですか?と直接聞かれる方も多く、電話も随分有った。
私も「どう間違えても100歳まで生きると母に言っていたのですが、とても驚いています。
母は入院して太り過ぎが直って戻ってきます。」と皆様に答えてます。

もう1つは、今回小学校2年生の時から必ず一度は行きたいと思っていた世界初(アメリカ初)の国立公園「間欠泉」で有名な「イエローストーン」に55年越の思いを遂げる事が出来ました。
たまたま今回の出張は、アメリカの西→東→西海岸の会社へ行く予定だったのですが、3.11を見ていて、人間やり残す事が有ると必ず後悔すると思い、東海岸をパスして単身「イエローストーン」に向いました。4泊5日の素晴らしい旅となりました。
アメリカ人は国立公園を誇りにしていて、世界遺産などに登録するつもりはないようですが、年間300万人以上が訪れるそうです。
イエローストーンについては別記でしっかりレポートしたいと思いますが、絶滅した「狼」の復活大作戦をとても楽しみにしておりました。

話は飛びますが「ちょい悪おやじ」が新しい会社に移り、2ヶ月程経ったので、冷やかし半分、愚痴聞き半分でアメリカに行く直前に夕方飲み屋から連絡すると1時間程で来るというので「狼」の話でもしてやろうと思っていたら、「ちょい悪おやじ」は自分の元会社と家族にしか興味が無くなっていて、人間を除く自然の長の1つである狼を馬鹿にするのについカット来て怒鳴りつけてしまった。
翌日メールで今後はケーキとコーヒーミーティングにしましょうと書いてしまい、古い友人を失ってしまった。
これも3.11症候群の影響だと思うのですが、単なる酔っ払いの愚痴でしょうか、何か今年は今までの人生の未体験ゾーンが沢山有り、それを経験させられる時代なのかもしれません。
兎に角前向きに楽天的に、人生を過ごしたいものです。

オワリ

 

レクターとモモの初顔合わせ

2011年05月17日

以前から我が家の15歳の娘「モモ」と昨年息子になった10才の「レクター」と一度顔合わせをしたいと思っていたのですが、乗馬クラブが休みでないと犬を連れて行けないのとモモが高齢(人間で90歳位?)なので少し気候が良くなってからと考えて4月末にようやく対面が叶った。
あまり車に乗るのも得意ではない「モモ」はシートベルトをされてクラブに到着するまで文句ばかり言ってた。(犬とは思えない様々な声を出します)

クラブに着いて馬の蹄の音が聞こえて来るとモモは驚いてワンワン吠え始めた。
初めて見る大きな馬にとても驚いたようだ。
馬場に出ていた馬達は犬に慣れているようで全く無視していた。

厩舎にモモを抱いてレクターに初めて会わせたが、レクターは「なんだいお前は」と大きな鼻でモモの匂いを嗅いでくれたのだが、モモは鼻でツンツンして噛むそぶりをするのでレクターは変なヤツと思って相手にしてくれなかった。
モモが早く帰りたいとうるさいので、モモとレクターの記念写真を撮って早々に引き上げた。

   

   

   

   

帰りの車の中でモモは疲れたらしくぐっすり眠ってしまった。
モモの体重の150倍程のレクターは顔も大きく改めて驚いてしまった。
お互いが姉、弟の意識無く終わった初顔合わせで大変残念でした。

追)4月29日からのゴールデンウィークはいつもどこかに出かけていたのですが、今年はレクターとゆっくり楽しみたいと思っていたのに、何と4月29日に落馬してしまい、それも左脇腹の肋骨に「ヒビ」が入ったようで寝返りや咳もできなくなってしまった。
かがむ事も出来ないためレクターの脚の手入れも出来ず周りの人に手伝ってもらった。
ほとんど毎日レクターに会いに行ったものの騎乗は一度も出来なかった。
朝6時頃にレクターを厩舎から出してやると必ずといって良いほど前脚や後脚を犬のようにノビノビさせるので、この狭いところに入っているのが本当に嫌なんだろうといつもかわいそうになってしまう。
近頃は、モモが5時頃起こしてくれるのと、明るくなって暖かくなったせいも有り、とても行きやすくなった。
放牧して暫くすると砂浴をして大きな身体をゴロゴロして背中などが泥んこになってすっきりした顔になる。
それから全身を洗ってやってる訳です。
本当に自分の勝手なスケジュールでは世の中上手くいかないものだとつくづく思いました。

以上

竹の子で 満腹すれば 春終り
レクターは モモに突かれ 無視をする
モモ様は レクター嫌いと  吠え立てる
大落馬 肋骨ヒビで 咳も出ず
仕事とは 人・金・時の ゲームです
老人を 遊ばす国は 滅び行く
人生は 苦と苦を足して 得意技
毎日が 蒸発するよな 気持ち良さ

 

オワリ

 

ブロードの営業-その3

2011年04月26日

昔から言われている事ですが、日本は物作り力2、営業力1。
米国は物作る力1、営業力2と言われ、日本の製品をアメリカでアメリカ人が売った場合は2×2で4の力となり、アメリカの製品をアメリカで日本人が売ると1×1で1の力となってしまうとの笑い話が有ります。
日本では物作りに力を入れるあまり営業に力を入れてこなかった事も事実だと思います。
これからの日本人は両輪として2×2=4の方程式になる努力をしないと世界に通用しないし、日本の国力がみるみる落ちていく事になります。
日本のグローバル企業は世界の優秀な人材を日本人の何倍も採り始めたのは当然の流れだと思いますし、これを止める事は不可能だと言えます。

さて、本題に戻って営業の楽しみは何か考えてみると、その楽しみの前に営業も1つの大きな技術力が必要で有り、これを身に付けないと駄目だと思うのです。
大学で「営業学」という課目が有るべきだと常々思ってます。
それには経営学、実践マーケティング学、心理学、人生哲学、IT利用技術、語学力etc.が必要なのだと思うのです。

人生の総合学だと思ってもらえば良いのです。
営業は人生道場そのものだと姫野は考えているので毎日毎日がとても楽しく過せるのです。
人に嫌われたり、憎まれたり、裏切られたりするのは当たり前なのです。
自分を良く見せる必要は有りませんが知ってもらう事がとても大切であり、 逆に相手を良く知る事もとても大切なのです。
当然「親しき仲にも礼儀有り」は言うまでも有りません。
わくわくするセクシーモードはもう有りませんが、いつもそんな恋愛物語を綴っているようでも有ります。
全ては自分の責任なのです。
他人や製品や会社は関係有りません。
自分一人の責任なのです。(一人で仕事をしたり営業したりとは意味が異なります)
何か「人は一人で生まれて一人で死ぬ」と良く言われているのに似てませんか?
少々大袈裟に考えてるかも知れませんがこれくらい思わないと人生面白くありません。
人生と言うと深く長く大きなもののように感じる人も多いと思うのですが、一瞬一瞬の積み重ねで、お釈迦様が言われるように一瞬は「瞬(まばた)き」の間なのか「何億年」なのか誰にもわからないのですから、そんな事を考えられるのも営業の面白さでは無いかと考えます。
だんだん真向臭くなってきたかもしれませんがそれもまた楽しいものです。

実際の営業個人としては、やっとの思いで発注をもらえたユーザの窓口や上司の人とささやかな宴を持つ事が最初の大きな楽しみです。
そして、商品だけの付き合いでは無く、一生の先輩や友人として付き合える事がさらに大きなの楽しみなのです。
社内や学校の同期などは楽なのですが、自分で努力して得た友人達で無い為、あまりにも打算が多く、真の友にはなり難いと思います。
そこまでユーザは思っていないと言う人も多いと思いますが、忌憚の無い言葉を発してくれる人を何人も持っている事が、無常の喜びです。
又、どんな友人でも自分が油断していると大切なアドバイスを聞き損ねたり、相手が言えなくなったりします。
それも全て自分の問題だと思うのですが、姫野も人の採用ではずいぶん失敗して来ました。
自分があまりにその人を気に入ってる様に他人に話すと、殆どの人は何も言ってくれません。
年を重ねる程に自分の言葉の重みを考えねばなりません。
特にある年になり、アルコールが入ると余分な事を言ったり、人を傷つける事が度々有ります。
いつまでもユーザの前で酒を殺して飲む訳には行かないのですが、酒の楽しみ方だけは気をつけなければいけないと思います。
別に本音を言ってしまうという事では無く、言わなくても良い余分な事で楽しみが減ってしまう事がもったい無いと思ってます。
ですからなるべく酒宴では一次会で帰るようにしてます。
その為に一次会では神経を集中させ、楽しみを逃がさないようにしてます。
酒宴というよりは食事会にだんだん近くなって来てます。
その為にも良い仕事、良い人、良いお店を選ぶようにしております。

最近読んだ「井上靖」の新編「歴史小説の周囲」講談社文芸文庫の中の「枯れかじけて寒き」の中に利休がお茶の極意(奥義)について述べている書簡が出ています。
利休の自筆の書状でこのような文章が有る事はほとんど無いそうです。
「侘数寄、常住候、茶之湯、肝要候」
利休は「いつもいつもお茶の事を考えていて心から離してはいけない。しかもお茶を点てるという事の肝要さは言うまでも無い事、ゆめゆめ疎かにしてはならない」と言っている訳です。
井上靖は自分の事を「作家精神、常住に候、創作、肝要に候」と書いております。
井上靖風に乗って姫野流に言えば、
「営業精神、常住に候、人生、肝要に候」となる訳です。
いつもいつも営業の事を考えていれば営業の良い結果も生まれ人生心豊かになります。
これが姫野の営業の楽しみだと思います。
利休と同じ気持ちに一瞬でもなれるのも営業の楽しさだと考えておりますが、営業の楽しさは、人生がとにかく前向きと言うか、今風に言えばYes I Canから物事を考えられるようになる事です。
減点法では無く加点法の思考になるのです。
これ程人生明るく楽しくさせるものはありません。
こんなに親切に営業について書いても、読まない社員が居る事自体、何の感情も持ち合わせなくなって来ております姫野です。

オワリ

 

ブロードの営業-その1 & その2

2011年04月20日

ブロードの営業についてコメントした内容ですが、たくさんの人々が日々営業の中でとても苦労なさっているのではと思いアップさせていただきました。
「苦有れば楽有り」と良く言いますが、姫野の営業体験から言うと、苦有れば苦続く事多く、楽と言う事はほとんど無く、苦の中に楽を見い出す力が無ければ無理だと思うのです。
だんだん言われる事だけをやるようになってしまい(要領良くなるのですが)、自分の考えで行動をして仕事を遂行する力が無くなってしまうのだと思います。
姫野から営業の2文字を抜いたら何も残りません。
一生=営業=人生=楽しみ=生命
50歳代の人には今がゴールデンエイジ、60歳代の人には今がスーパーゴールデンエイジとお伝えしているのですが、とにかく楽しく一生を終える為の努力は日々絶対必要なのです。

営業その1
 

営業のみなさん、Aさんにコメントをして営業ALLで回覧してますが、少し説明をしておきます。

別にAさんにだけコメントをしているわけでなく、営業全体に同じことが言えると思って回しているのです。

営業は自己管理を厳しくして、しっかり自分の人生道を持たないと、人から信用されません。
商品説明だけでも駄目ですが、自分の担当している製品を機能説明だけではなく、自信を持って、自分の言葉にして見込み客に話が出来なければ、人は動きません。

又会社に居てはまったく自分の進歩もなければ、失敗もありません。
如何に自分にとって良い顧客を見出して付き合えるかは 自分の足と場数を踏んだ精神力にかかってます。

そんなこんなで営業について話したいことは山ほどありますが、具体的事例をしてOJTをやるのはとても難しい物があります。
偶然Aさんに朝晩レポートしてもらうことになったので 良い事例と思い回覧にすることにしました。

他人事と思わず、毎日一歩一歩営業として進化して頂きたいと考えます。
営業が頑張る以外に会社は発展しません。
その強い意志を持って頑張ってください。

 
営業その2
 

せっかくですのでブロードの営業についてもう少し、コメントしておきます。
営業各自のレベルが違いますので個人個人にフィットしないと思いますが一般的なことをお伝えします。

まず運用会ですが何の為に続けているか理解してない人が多いと思います。
20年以上もこの会が続いているのはただ単に発表を聞いて飲み食いを続けるだけでは何の価値もありません。
運用会はブロードの営業力&企画力を問われている試練の場だと考えて見るべきです。

ブロードは広い意味での運用の世界で生きてきたわけですが運用部隊はとても保守的であり、しかも現在はコスト意識が高い傾向があります。
従って単に良い製品があるからとかコストメリットがあるから営業の成果が生まれるわけではありません。
又一人の担当者で決めれることでもありません。

ブロードの営業はB to Cとは基本的にちがいますので、 B to B でしかもB to C を加味した難しい営業力が要求されるわけです。
(姫野としてはそれが面白いと思ってます)
それらの実践の場として運用会は最適と思います。
姫野も運用会の場でいただいたアイデアで製品を探したり、海外にもご一緒していただいた方々もいます。
運用会にご参加の方々にはブロードから何か買ってやれと言われる方もいます。
基本的に営業のベースは出来上がっているわけです。
それでも其の中でどのように本当のユーザーニーズを掘り起こしながら、ユーザーの心を掴むのかは並大抵のことでは出来ません。

しかも同じ傾向はあるものの、百人百色なのです。
しかしプロセスは違っても結果は同じと言うことも多いのです。
(パッケージソフトが売れると言うことです)

例えばPS(自社ブランドのパワーセキュリティ)がここまで投資をし進化してきたのはそれなりの理由があります。
最初はログだけ、あるいはキーストロークログを取れればよいと言っていた顧客は環境の変化でそれだけでは満足いかないし、無駄なコストをかけることになります。

ログ画面をずっと人が見ていることは、システム的に、あるいは人間工学的におかしいと言うことになります。
又そんな作業を社員がやっていたら、すぐ自動化すべきです。
外注であれば子会社か派遣社員かで検討が変わります。
検討している人も本社、子会社、外部コンサル等でもまた役職によっても変わるはずです。

其のバリエーションは考えればきりが無いと思います。

でもそれを考えコーディネーションできなければウイナーになることは出来ません。
しかもタイムリーなSEサポートや海外ベンダーのサポートも欠かせませんが、それも営業自身でコーディネーションする事が大切なのです。

姫野が営業報告をプロセスベースで書くことの大切さを常々言ってますが少し理解できたかと思います。

営業は成功プロセスを身に付けて(当然失敗プロセスを理解して其の失敗を繰り返さないことがもっとも大切です)行くしかないのですが、日々のレポートがとても大切なわけです。
他人のレポートを見てドンドン質問をしたり、確認をしたりでき無い人は成功する見込みはありません。
成功するには単にPS,PWS,PBなどを見込み客に話をしに行っても成功体験にうらずけされていなければ何の価値もありません。
一人で考え、一人で抱え込む営業は、ユーザーからお断りされるのが落ちです。

又営業はユーザーが断ろうとするのを如何に断り難くするかをいつも考えなくてはいけません。
一回断られたり、キャンセルされたりすると、そのリカバリーに10年や、20年かかることになります。
お断りを予見するには百戦錬磨で、たくさんの成功体験とそれ以上の失敗体験があるかどうかです。
その為にはいつも会社に居ては何の改善もありませんし、さらに営業内での情報交換の質の高さをいつも要求される訳です。

こんなことをいつもベースとして思い続ける事は難しそうですが営業の宿命と思い楽しむ事が大切です。
姫野がいつも言っている「単なる物売りでなく、一人前のプロになる為にブロードを利用する」ぐらいの気持ちが無ければ、ブロードにいる価値はありません。

長々書いてしまいましたが参考にしていただければ幸いです。
次回は営業の楽しみについて考えてみたいと思います。


続く

1200年に一度の地震-その5

2011年04月18日

3.11の大地震について言えば余震は多いもののかなり落ち着いてきているようです。
まだ原発は当分かかりそうですが、東電と国のチームプレイに期待するしか有りません。
我が家について言えば計画停電も無く、揺れも少なく壊れたものも無く、ほとんど影響が有りませんでした。
ただ母親が一人で家に閉じ籠ってテレビばかりを見ていて肩や身体が凝って少し変になっただけのようでした。
姫野は2年程前の海外出張で食中毒に罹りそれ以来腸の調子が悪く、医者からは見放されて善玉菌が悪玉菌を駆除して、善玉菌が過半数を超えるまで、朝晩ビオフェルミンを飲むくらいしかやる事が無いと言われてた。
尾籠な話ですがガスがとても臭く、とても自分のお腹から出て来るものとは思えなかったのですが、3.11のお陰でほとんど夜のお付き合いがなくなったせいか、少し食べる量を減らしたせいか、3月末頃から昔の自分のガスの臭いに戻ってきた。(さすがに良い臭いとまではいかないものの自分なりに納得できるのです)
こんなわずかな食中毒でも腸内菌が戻るだけで2年もかかるのに驚いてしまった。
身体のバランスは本当に微妙なバランスの上に成り立っているのだと再認識させられました。

今回の3.11では多くの日本人が「地球に生かされている自分達」に気づき、恵みとリスクはいつも隣り合わせだと心に深く思い起こした事の意義は大きいと思います。
次の大震災は必ず起こるが、いかに被害を最小にするかを考え、実践する国民になって欲しいと思います。

以上

地震より 原発怖い 大地震
薄暗い 街に活気を 呼ぶ桜
桜散り 節電地獄の 夏が来る
桜散り 梨の花咲く 白い丘
桜散り 桃梨終り 藤を待つ

 

オワリ

「われらにとって美は存在するか」を読んで

2011年04月12日

今年の関東の桜は無事咲いてくれ、特に新年の入学式にしっかり桜色の輝きと喜びを与えてくれた。
今回の大震災でも自然の摂理にかなった事だけれど、当たり前の事を当たり前に出来る事への感謝の気持ちをいつに無く強く感じる年もないように思う。

   

今年は2年ぶりに実相寺の2000年桜を見に行く事になって4月16日(土)をターゲットにしている。
平年より1~2週間遅れているようです。

近頃たまたま評論類を読む事がいくつか重なったが服部達の「われらにとって美は存在するか」を読んでかなり感じるものがあった。
32才までの自分の文章を「若気の至」として33才で(1956年 昭和31年)自殺した天才的評論家「服部達」の「最後の日記」などもとても興味深かった。
「メタフィジック批評」にはついて行けないと思う所もあったがシューマンとショパンの比較などは成る程と思わせる物があった。

よく言われる、「シューマンは詩人であり、ショパンは芸術家である」をベースにした服部達の若き日のロバートシューマン論は面白かった。

個人的にはあまりオペラは得意では無いのですが(言葉の壁が厚すぎて)芸術としての音楽の中の最高傑作はオペラと言われるのもわかるような気がしてきました。
それだけ言葉と音楽の融合は難しく素晴しい触媒がないといけないのだろうと思う。

話は戻りますが近代の作家達の評論もなかなか面白かったが「解説」をされている勝又浩氏の言うがごとく「竹は芽の出たその年の内に一生分の成長を果たしてしまうがごとく服部達は一生を終えた」としている。
映画になったような気もするが「短い人生これも又良し」と思わせる程質の高い評論でした。

また、随分遅くなりましたが柄谷行人の「近代文学の終り」は自分が思うイメージとは大変な差が有った。
自分としては近代小説が私小説化してその堕落の由に、なんて考えていたのですが、大学の講演でこれが行われており、学者としての冷静な分析によるものだったのです。(2003年10月近畿大学での連続講演)とにかくお読みいただいたほうが良いと思います。
ただ世界資本主義の諸段階と主要芸術に関する表が有りますので(P63,P62)引用しておきます。

文学だけに限らず様々な事象は民族・国家・世界によって、その時代と背景により大きく価値が変わると言う事です。
「近代文学の終り」と言う事ではなくて、機関車となる物が時間とともに変化すると言う事なのでしょう。

以上

満開の 桜も今年は 遠慮がち
背伸びして 枝の先まで 咲く桜
入学式 待ってた桜 満開に
言葉では 表現できない 大震災

オワリ

1200年に一度の地震 その4

2011年04月08日

今回の大震災の大きな特徴は原発のトラブルに始まって終わるのではないかと思います。
後6ヶ月以内で何とか廃炉の道に落ち着いてくれればと良いと思います。
面白かったのは、海外メディアが東京をレポートした時、丁度日本の「花粉症」のピークでほとんどの人がマスクをしている為ますますパニックとして報道したようです。(海外の人は病院以外ではほとんどマスクをしません)
又それを見た海外の人々も本当に原発は大変なんだと思ったようです。

東電はこれで3代の社長が原発問題で退任となります。
最近のNHKニュースでも東電が津波が来る前の原発事故のデータを発表(隠蔽とはさすがに言いませんでしたが)してなかった事を報道してました。
これはすでに地震で原発が破損していたと言うとても大きな問題なのです。
東電は常時原発のデータを全てオープンにする体制が出来ない限り今後の日本の原発は認められないと思われます。
日本国としてその有り方やデータ開示・分析の方法、体制をしっかりさせる事がとにかく急務だと思います。

所で今回の大震災で翌日には東京の本社機能を大阪に移した企業が有ります。
この企業とは外資系で日本の本社機能は東京に有るのですがBCPのルールとして先ずは大阪へ、それでもダメなら次は上海に、上海もダメならシンガポールに移す事になっていて、絶対に本社機能を無くさないようになっているとの事でした。
大企業やワールド展開している企業は日本だけでなく世界の人々に責任が有る訳ですから当然だと思われます。

又、大阪の大手家電メーカーは地震発生の5分後にIT部門の災害対策本部を立ち上げ素早い修復にあたったそうです。

今回のような不測の事態にこそ、その人、その企業の力量が問われる訳ですが、日本人のお得意の「喉元過ぎれば・・・・・。」にならないと良いと思うのですが。

以上


千年の 眠りを醒ます 大地震
日本より 世界を脅した 大震災
停電で オール電化の 夢醒める
輝ける 広告灯は 過去の事
平和ボケ これで醒めたか 大震災
言葉より 管弦楽で 鎮魂歌
大地震 言葉にならず テレビ消す

オワリ

1200年に一度の地震 その3

2011年04月05日

「東京・春・音楽祭‐東京オペラの森」と言うのを皆様ご存知でしょうか。
IIJの鈴木幸一社長はご存知の方も多いと思いますが、その鈴木さんが実行委員長で7年目を迎える会です。
3月18日から上野を中心として様々な場所で様々な演奏が行われるはずだったのですが、今回の事で海外からほとんどの人が来日しなくなって大幅な変更を強いられてほとんどがチャリティコンサートとして行われる事となった。
姫野は個人会員となっていて4/2日の東京文化会館大ホールだけ招待をされていた。
指揮者も読売日本交響楽団の名誉客演指揮者の尾高忠明氏に変更され、プログラムも変更された。

最初の曲目はバーバー : 弦楽のためのアダージョop.11
2番目の曲目はマーラー: 交響曲第5番嬰ハ短調
アンコール曲はエルガー: 創作主題による協奏曲
 「エニグマ(謎)」op.36より
 ヴァリエーション9"ニムロッド"

で有った。
会場はさすがに半分も入っていなかったようですが、バーバーとエルガーはとても素晴しかった。
マーラーは指揮者と楽団の気持ちが一致してないような気がした。
又、珍しい指揮者のスピーチ(上手い訳では無く)も心を強く打った。
鈴木さんに書いた礼状をご紹介します。

前略
 

鈴木さんブロードの姫野でございます。
土曜日は大変素晴らしいチャリティーコンサートにご招待頂き誠にありがとうございました。

特にバーバーは自分の魂が海の底に眠っていたのを静かな潮流によって目覚めさせられ、しだいに周りを見渡せるようになるとあちこちにたくさんの魂が見えてきて、皆で暗い海の底から大きなうねりとなって、明るい空に向かって飛び出し、そして又静かな海に戻っていくような、不思議で安らかな気持ちにさせられました。

言葉と音楽の持つ芸術性について、良く語られる所でありますが、今回の大震災は音楽によってのみ表現可能なのでは無いかとつくづく考えさせられました。

又尾高さんのお話を頂いた後のエルガーは初めて聞いたのですが、ほとんどの人が自然と涙が頬を伝って落ちたのではないかと思います。
姫野も例外ではありませんでした。

ご存知でしょうがアメリカの9.11の夜はマスコミや市の関係者が市民にむかって家にこもらないで外で食事やショッピングをしてとキャンぺーンをしたのは有名な話です。
日本人も早くそうなってほしいものです。

鈴木さんはじめ皆さんの今回の開催に当ってのご苦労は理解を超えていると思います。何もお手伝いできなく申し訳ありません。
Aさんにも宜しくお伝えください。
(毎週火曜日の日経電子版に掲載されているビジネスリーダーとしてのブログも楽しみにしております)

今後とも皆様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
  
取り急ぎ御礼まで               草々

久しぶりに「言葉」で言いつくし難い何かを「音楽」は表現し得ると言う初めての体験でした。
それ程今回の大震災は世界の人の心を揺り動かしたのだと思います。
この体験は1000年に一度しか出来ないと思うと何となく武者震いでは収まらない何か異様な物を感じます。
とにかくこれから逃げる事は出来ないし、皆さんと一緒に頑張りましょう。

オワリ

1200年に一度の地震 その2

2011年03月31日

東北関東大地震からようやく2週間が過ぎましたが風評による「人間の心」の問題が多く見られるようになってきました。
国政のあまりに遅い対策や行動にがっかりすると共に日本のマスコミの力の無さをいやと言う程思い知らされた。
これではどこと戦争しても負けてしまいそうです。
素早い情報の収集と正しい決断、それに伴った平坦(物流システム)が雌雄を決する事になる訳です。
これは様々な戦記や決戦の分析が行われており、ここで説明するまでも有りませんが、つくづく日本が平和でよかったと思ってしまいます。

今回の震災で非常に残念な事は世界にとても大きな影響を与えた事です。
原発が良いか悪いかと言う議論ではなく、お粗末な東京電力が負の引き金を引いた事に有ります。
(東京電力は下請け構造の頂点でしかなく全く現場からの情報や状況を掴んでいなかったと思われるからです。フランスなどでは東京電力と言う会社は今でもデータを改竄したり信頼されていないとされていた。)
何とか世界の人々が努力してやってきたのに一番信頼されていた国が自らバンザイしてしまったことに有ります。

IT業界も同じようなことが言える様な気がします。
元請けから3次下請けまでの体制が出来上がっている所が多く、何か有ってもなかなか現場の情報が把握出来ないことが多く有ります。
我々IT業界も「他山の石」としてこれからの会社の将来に責任を負う為に何をすべきかを立場が違っても良く考えなければと思います。

オワリ

閻魔様 天国の門 開け放つ
天国も あまりの多さに 家が無い
大震災 自分の幸せ 噛み締める
被災者は 八百万の神と 立ち上がる
買い占めに 弱い心が 動かされ
春迎え 被災者たちも 歩き出す
ローソクを 途中で消した 野暮なヤツ
大震災 天罰と言う 人も居る

以 上

 

1200年に一度の地震 その1

2011年03月15日

3月11日(金)は定例の慶応病院の検査の日で朝から午後2時頃まで病院に缶詰になる為休みを取っておりました。
病院はご存知の人も多いと思いますが、JR信濃町の目の前に有り、定期が使える半蔵門線の青山一丁目駅までの10分程度歩くのが常となっています。

気が付いたらお昼を食べてなかったので青山一丁目の駅の横にあるタリーズでエスプレッソ(これはまずかったです)とサンドイッチを食べてホームに行くと丁度急行が来ていて座る事も出来た。
ラッキーと思いながらいつも通り帰宅できると考えていた。

渋谷を過ぎて池尻大橋に近くになって突然緊急停止しますとアナウンスが有り、駅に止まった。
なんだろうと思っていたらめちゃくちゃ電車が揺れ始めた。
普通でないなと思ったので自宅と会社に「大丈夫か?」の確認メールを送った。
まだ灯が点いていたのでたいした事は無いなと高をくくっていたのですが、だんだん雰囲気が悪くなってきた。
空調もストップしてとても蒸し暑くなり窓を開けたりした。
又、アナウンスが有り、1番後の車両からホームに出れるとの説明があり運転の再開に時間がかかると思われた為急ぐ人はどんどん後ろに動き始めた。
どうせ急ぐ事も無いと思い座っていたら突然車両と地下鉄から退去命令が経産省から出たと言われ、慌てて池尻大橋の駅を出て国道246号線に出た。
駅員に電車は当分動かないねと確認し、「所で震源地はどこ?」と聞くと「東北らしい」と言う。
頭の中でこれはもうすぐ来ると言われている関東大震災の訓練に調度良いと思い歩く事を考えた。
まだバスが動いていたので渋谷に戻るのが一番楽だと思い、いつもの「竹由」に何度か電話したがすでに全く繋がらなかった。
次は二子玉川にある「有酒」(アリサ)まで8km程歩いて行くと丁度5時半頃着くと思われたのでこれがベストと思って歩き出した。
結構風も強く寒かったがそれ程たくさんの人もいなく歩きやすかったが道路は車で溢れていた。
池尻大橋で姫野を追い越して行ったバスに用賀近くで逢い、追い抜いてしまった。
予定通り5時半に「有酒」に着いてやっと美味しいビールを頂いてゆっくり食事をしたが、お店の人は運良く全員来ていて姫野の話で盛り上がった。

お店から溝の口まで歩いて20分程だと言うので9時半頃から歩いて溝口に向かった。
外は寒いのにほろ酔い加減で気持ちよかった。
今度はたくさんの人が歩いていて驚いてしまった。
10時頃目的のお店「茂茂」(モモ)にたどり着いて2次会をスタートした。
しこたま飲んで12時近くになって電車が動き始めたのがわかったので、溝口のホームに行くと人が溢れていたが、急行がすぐに来て気持ちよく1時頃自宅に戻った。

地震の予行演習で良くわかったのは絶対に車に乗ってはいけないのと、歩くのも今回のような場合を除いてビルの倒壊や火災が有った場合は絶対に無理と思われました。
従っていかに現状を把握して冷静な判断をするかが自分の命を守る事になると思いました。
安易に動くのはとても危険だと感じられます。

又、ブロードは海外の取引先が多いのですが、海外の多くの人々が心配してメールを下さいました。
海外からの多くのメールではこのような未曾有の事態に日本人はとても冷静に秩序正しく行動している事に驚きと賛美の声が多数有りました。
本当に有り難い事だと思いました。

話は飛びますが、個人的には日本のような地震国には絶対空母が必要(広い領海を守る為にも)と思うのです。
日本に5隻(1隻予備として)の空母が必要だと考えてます。
もし、このような時に国防力が落ちれば侵略される可能性も高いと思います。

最後ですが日本の敗戦から日本人から無くなったと良く言われる「日本人としてのプライド」や「世界のリーダーとなる」との意識が戻って来て国が再生する事を願ってやみません。
それが今回亡くなられた方々への最低限の責任だと思うのです。
東京電力のような会社がこれからも日本を牛耳っていくようだと日本の再生は有り得ないと考えていますが、民主党もこれをラッキーと思い延命だけを考えるのではなく、日本再生に命をかけて欲しいと思います。

日本国民はとても優秀で礼儀正しく優しさに溢れているのですが(一部の人を除いて)これを日本の文化として世界に広める事が大切だとつくづく思い知らされました。
200年、500年、1200年に一度と言われる大地震・大津波に逢いレポートさせていただきました。

オワリ

いよいよ25年目に

2011年03月10日

3月3日に会社設立し、今年はいよいよ25年目に入ることになりました。
過ぎてみればあっという間の25年でしたが、順調な事はほとんど無く、いつも自転車で悪路を走ってきた感があります。
大きく自分が変わったと感じられたのは15年目を迎える頃からだと思います。
悪路とそのトラブルの連続が当たり前で、でも何とかなると自分が諦めなければと思えるようになってからでした。
とは言っても結構自分の思い込みや予測ミスにより決算がブレる事も沢山有ったのですが、自分だけ我慢すれば済むと言い聞かせ、駄目ならいつでも会社を畳んでしまおうと考ることが出来て気が楽になった気がします。(今まで一度も給与やボーナス無しが無いのがせめてもの勲章です)
変な話ですが社長一人で責任を負える状況で無い事も確かなのです。(未だにそんな気持ちでやってます)

矛盾しているようですが、自分の覚悟(社員の覚悟とも言えます)の問題だと思えるのです。
「人生トラブル無くて楽しみ無し」と良く言われる通りだと言う事です。
ただ人間として辛いのは成長しない社員を解雇する時はかなりストレスが高くなり深酒をする時があります。
自分の人生を大切にしない人や顧客を大切に出来ない人は退職してもらう訳ですが、それは採用と同じく自分の大きな仕事と思ってます。
何年間もカウンセリングを行ったり合宿などをするのですが、なかなか変わってくれない人が多く、忍耐力の勝負となることが多いです。

5年前から新人を採用しているが、これもなかなか上手くいかない。
どうせ苦労するなら中途では無く新卒を教育したらと考え、1年に2~4人採用してきたが自己虫(自己中心の考え方というより他人とか相手の心を思いやる心が無い)から脱却出来ない人が多い。
自己主張が強いのにその割りに本を読んだり人と話し合ったりしない人が多い。
それで毎日朝早くから遅くまで会社にいる人が多い。
(業務でだらだらやっているとしか姫野には映らない)
それでも最近の新卒1号の5年目のメンバーが戦力となってきたようで、人を育てるというか一人前にさせるには時間とお金と周りの社員の愛情と忍耐力が無ければいけないとつくづく思われます。
諦める事をしてはいけないと思いながらも中途の人にはどうしても厳しくなってしまう。
特にブロードはB to Bの営業職を育てようとしているから難しいのは当たり前なのですが…。
無いものねだりはするつもり有りませんが、一人でも多くの人間を育てられれば幸せです。

恒例となった3月3日の伊東のサザンクロスでゴルフの初打ちをし、前日の昼は「ふじいち」(2代目の息子の代になりました)のランチ(ファミリーセットが2100円で生イカ、カマス、海老、さざえ、ハマチカマを自分で焼いて食べて、日本酒2合をいつも飲みます)を、夜は「かっぽれ」の金目鯛を楽しんできました。
当日は雪が積もってゴルフは出来ないかと思ったのですが、スタートを10時半にしていたのでコースに出る時には全く雪も無く快晴で富士山も良く見えました。

   

   

 

「人生山あり谷あり」ですがこれからも楽しく仕事をして楽しく終わりたいと思います。

以上

川柳でストレス解消 ベストです
人助け やってるつもりで 助けられ
毎日の多くの出会い>楽しいな
休みボケ なかなか欠伸 止まらない
賭けゴルフ あまりに遅い パッティング
馬の口手を譲る上級者
逢う度に 我儘増えるレクター号
興味有る事 多かりし我が人生

オワリ

ちょい悪おやじ・・・

2011年02月21日

ここ2・3年団塊の人々が次々と定年を迎え始め、近年の厳しい時勢も有り、60歳前後で完全に退職され、スーパーゴールデンエイジを楽しまれる方々が大変増えて来た。
姫野のような働ける間はとにかく働こうと言う人は年配(60~70歳)の人(趣味があまり無いせいも有ると思いますが)に多いように思う。

これから年金支給が70歳からとなるのが世界の主流で有り、60~70歳の間で、働ける人は極力働く場を国も社会も作って、なるべく多くの人が楽しみながら働く(と言うより社会貢献する)必要が有ると思うのです。

今年3月で、毎年年末の出勤最後の日には必ず二人で酒を飲む大学の同級生の友が卒業となると聞き、とても残念だと思うと同時に大きな時代の転換期を迎えたような気がする。
会社(ブロード)を作る前からの付き合いでしたが、独立した当初随分世話になった。
今日ブロードが有るのも彼による所が多い。(とは行ってもすでに20年以上前の事となりましたが)
その彼は、学校の時はほとんど知らず、彼の会社の上司から姫野の同期か後輩がいると紹介されたのが「長いくされ縁」の始まりでした。
たまたまお酒が趣味でしかも熱燗が大好き、特に彼は一合徳利で自分専用とするのが好きなこだわり派でした。
又、女の子が好きで、若い子が近くにいると何とかコミュニケーションを取ろうとする努力は大変なものでした。まあ今風(ちょっと昔かな?)でいう「ちょい悪おやじ」でした。
いかにもキザで「かっこつけし」でしたが、その反対の日本酒のこだわりが不釣合いで面白い人間でした。
そんな友がいなくなると、いよいよ寂しくなると同時に我々が生きて来たIT業界も今年が新IT業界元年のスタートの年のような気がして来て、いよいよ世界的に知恵の勝負がスタートする難しい時代に突入するのだと思います。

寂しいな ちょい悪おやじ 定年だ
定年を 勝手に決めて 年を取る
定年を 物ともしない 友も有り
時に追われ 時に越されて 露となる
義理チョコに 要らぬと言いて 手が出てる
貧乏神 追い出し係は 我一人
節分を 楽しみたくても 孫おらず
雪降って 花が咲いたか 古老松
レクターと 駆け足楽し 春の風
春めいて 2月はやっぱり 駆け足か

オワリ

インターネット雑誌「ディグニオ」

2011年01月12日

年末にも紹介いたしましたが、日経BPのインターネット雑誌「ディグニオ」に1/11付けでレクター号と姫野が紹介されました。

編集者の方は小学生の女の子をお持ちの方でしたが2時間程姫野の脈絡のない我が侭な話を聞いていただきました。
1ヶ月程して彼女から自由に直して下さいと言われ、文章をメールされたのだけれどプロが書いたものとして口を挟むべきではないと思い本文は一切直さなかった。
姫野のとりとめも無い話を良く我慢して聞いていただいて上手く纏められており、こういう仕事も大変だなと思った。
これで姫野が競馬ではなく「乗馬に嵌っている」事が証明されたと思います。
休みの朝モモが5時くらいに起こしてくれるようになったのだけれど、その目は「今からどこ行くの?何で?好きね?」と呆れているようです。
近頃はとても寒く早朝氷点下4℃ぐらいになる時も有り、指が痛くて準備が出来ない時も有りますが、インフルエンザや風邪防止と思ってやっています。
人間の自分はしていないのにレクターはインフルエンザなどの予防注射を早々11月に済ませ家族から大笑いされました。
これで1人でも乗馬人口が増えると楽しいのですが…。

早起きが 初仕事なる お正月
ノンビリと けだるさ残る 冬の朝
カレンダー 残って新年 ゴミ箱へ
初春と 聞くだけなのに やる気でる
ストレスを 吹き飛したり レクター号
病い得て 生きたい気持 強くなる

オワリ

新年を迎えて

2011年01月05日

今年の年末年始はレクター号がいるせいも有り、遠出する事は無く、とてものんびりした日を送りました。
新年は2日のみ乗馬クラブがオープンしたので、いつも通り5時半に家を出てレクターに会いに行った。年末31日年始1日を運動していないせいか、氷点下の中、厩舎から出して来ましたが、何か落ち着きがなく、指導員から乗らないでまず調馬索で少し回しましょうと言われ、始めたら何と飛ぶやはねるはで、あんなレクターの暴れ馬の姿を初めて見た。
しばらくすると落ち着いていつも通りに安定したが、あんなに暴れて馬は筋肉痛にはならないものなのかと指導員と笑い合った。
出来たら馬に聞いてみたい物で有る。

いつものことですが31日のNHK紅白歌合戦は見ないことにしていて、のんびり何冊かの本を読みました。
その中で楽しくて大笑いしながら、一気に読んだ本を紹介させていただきます。
「老年の品格」三浦朱門 2010年12月12日 海竜社発行
 定価1429円 副題「笑われる老人になろう」です。
1926年生まれで84歳の三浦朱門が書いた本ですが、曽野綾子のご主人と言ったほうが分かりやすいかもしれません。
いつもの通り内容にはあまり触れませんが、とにかく楽しいのです。
又、遠藤周作、安岡章太郎、阿川弘之、吉行淳之介、松村剛など作家達の交流とその裏話はとても愉快なのです。
P179頁の内容を引用します。

つまり笑いの効用というのは、厳しい現状からの脱却であるが、その手段としては、第一に、多くの体験をして、つまり老人の場合は自然に、そういう結果になるのだが、笑いの元なる矛盾の発見ができやすいための、豊かな経験の蓄積がある。
第二に、現状の状況から一歩引いた、冷静さを持つことである。そうすることで、直面している問題が立体的に見えてきて、そこに矛盾もそれへの対策も発見できる。
第三に、対象ではなく、現在の問題に苦しんでいる自分を第三者的に眺めて、その苦しみなるものが、主観的なものであって、少し立場を変えて眺めれば、そこには芸術も、笑いも生まれる、ということである。


この本は、ただ面白いだけで無く、人生の奥深い感性と愛情が詰まっていると思うのです。
文章もとても若々しくとても84歳とは思えない発想が面白く、人生の岐路である50歳ぐらいの人から読まれると本当に楽しいと思います。

1月3日は実母の86歳の誕生日でしたが、今話題の90歳からの詩人「柴田トヨ著 くじけないで」の本を送りました。トヨさんは今年めでたく100歳になられるそうです。

もう一冊是非お読みいただきたい本が有ります。
皆様よくご存知の「鎌田 實」著「人は一瞬で変われる」
2010年11月22日 集英社 定価 952円
姫野個人も病気と共に育って今まで来た感がしますが、まさに至言だと思います。
エッセンスはP67に

「人間の性格は、なかなか変わらない。でも読み替え上手になれば、行動というアウトプットは、わりとらくに変えることができる。そして、それが積み重なっていけば、人生だって変えられるのだと思う。」
と要められていますが、様々な人たちの例を出しながら、いかにも裏づけの有る「鎌田節」となっています。

年頭にこの2冊に会えたのも自分の今年の素晴らしさを表している物と思います。

又、今年の世界の中の日本は素晴らしい年になる予感がいたします。
今年も大吉だったおみくじのように素晴らしい年となると思えるのでした。

"わがおもう 港も近く なりにけり
ふくや 追手の かぜの まに~"

災害自ら去り福徳集まり
誠に平地を行くが如く追手
の風に舟の進むが如く目上
の人の助けを受けて善事あ
ります 信神怠らず心直く
行い正しくなさい

オワリ



 

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