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2004年12月17日 | 2004年を振り返って |
2004年12月06日 | 引越し始末記-Ⅱ |
2004年11月28日 | 引越し始末記-Ⅰ |
2004年09月24日 | 55歳の夏の思い出 |
2004年05月12日 | 「人生に余生無し」 |
2004年05月11日 | 16回目の引越しその2 |
2004年04月28日 | 16回目の引越しその1 |
2004年04月27日 | 「百薬の長」・・・お酒 |
2004年02月28日 | 四十九日 |
2004年01月20日 | どうしてよいかわからない話-2 |
2004年を振り返って |
2004年12月17日 2004年を振り返って 今年もいよいよ終わりです。 毎年毎年、季節感が無くなってきているが、今年も同じようなことなのに、なんとなく今年は自分にとっても会社にとっても大きな節目だったような気がしている。55才という年齢から来ることも有ると思うが、数年前から自分が考えて来たイメージがだんだん現実になって来ているように思う。(だんだん自分の終末が見えてくる) 説明するのは難しいのだけれど、そうだなあ!と思うことが多い。20代・30代のメンバーに主力が移りつつあるということかもしれない。義理の弟(500年程続いている寺の住職)
が若くして亡くなって始まった年でしたが、自分の描いていたイメージ(公私とも)をまっとうする気になったのかもしれない。 それでも自分のやりたい事や見たい事に時間や仕事を超えて楽しんで来た。特に食文化に対するこだわりは人に負けないつもりである(高い物を食べれば良いとは思わない!)最近、北大路魯山人の本を読んでいたら、最後に料理とは何かについて「素材を見抜く力」と書いていた。これには「我が意を得たり」で食文化と経営とは同じ所に行き着くということだと思った。まあ、人についていえば、器という言葉に行き着くのだと思うが、これを大きくしたり小さくしたりは(生かすも殺すも)自分でしかできない訳である。 食の素材は、それだけのこと。 なぜこんなにこだわるようになったかというと、そんな良い先輩や友達が多かったことと、近頃父親が死んでからなんにもしなくなった母親に負う所が多いと思う。 富山の新鮮な魚と珍味を食べさせてもらったせいだと思う。そんな料理自慢の母親も父が亡くなってからまったく料理をしなくなった。女というのは恐ろしいものです。 人間、1日に必ず3回まわってくる楽しみをずっと楽しめるのは、ほんとに有り難いことと思う。何を食べても同じでは、生きる楽しみが半減どころでなくなってしまう。近頃のアルコールの量の減り方は残念だが、死ぬまで飲みつづける覚悟でいます。そんな意味で、これを食べなきゃ死んでも死にきれないような品があったら是非教えて下さい。何をおいても飛んで行きます。 その季節と場所を選ぶことは当然だと思っています。年末からの楽しみな「福」を始め日本でしか楽しむことが出来ない品々の数々。これが、これからの深い深い楽しみです。皆さんとともに日本人に生まれたことに感謝感謝。とても海外では味わえない文化です。 出来れば、まず福岡に「福」(河豚)を食べに行きたいものです。次は蟹。氷見のぶりとひらめです。だんだん書くに従ってツバが溜ってきます。これを書きながら、今、大阪のいつもの店で「福」を食べる予定で待っています。後数分でもう1人そろうと「てっさ」から始まります。では今年はこれが最後のレポートになり終了とさせていただきます。 12月吉日 大阪「藤」にて 追) 今年9月に庭の辺に植えた小さな「キンカン」の実が色づき始め、12月初旬から、少しずつ口に入るようになってきました。近頃の「キンカン」は大きいだけで温室のせいか、全然おいしくありません。毎年「キンカン」が店先に出てくるとすぐ買うのですが、いつもがっかりでした。しかし、この庭の「キンカン」は、久しぶりに「キンカン」の味がするのです。全部で30粒ぐらいになっています。この分だとお正月にも食することが出来そうでとても楽しみです。 最後に16回目の引越しで20年前にこの家を建てた一級建築士に驚いています。季節季節で様々な木が芽を吹き、花をつけ、実がなるようになっているのです。長い時間がかかって出来上ったのでしょうが、それに手を加えるのは、なかなかおつなものです。 今 玄関に小木の3つの「サザンカ」が咲いています。何と3つとも花の色と形が異なるのです。そんな細かい気配りの古い家を次の世代に伝えるのも一興かなと短くなった夕暮れにふと思い新しい年を迎える気持になって来るのでした。 終わり |
「引越し始末記」-Ⅱ |
2004年12月06日 忘れられないうちにUPしようと思います。お分かりのように自分で(自分のホームページにはUP出来ません。専門家の手を経由しています。もう少し簡単だと自分でも出来ると思うのですが、別の問題も多くなるようでとりあえずこれでいいと思っています。(単なる甘えかもしれませんが、甘える相手がいる間は甘えさせていただくのが姫野流です!)つい最近、「メル友」が増えてます!と言っても少しも色っぽく有りません。相手は「還暦」を越えている人生の大先輩たちです。 短い文章が多いのですが、これが結構役に立っています。また、電車や車の中でチョコチョコメールするのも楽しいです。特に地下鉄だと、駅と駅の間で文章を作り駅に着いたら送信することが出来ます。私は1日50から100本ぐらいの携帯メールをします。1日2回ほど充電する時も有りますが、時間と場所を越えられ、しかも電話と違って人に迷惑がかかりません。是非皆さんもPCではなく「携帯メール族」になって下さい。 とは言っても私は、もともと「PCメール難て族」だったのですが、渋谷のあるお店の若い女の子(無論ママの公認)に「メル友」になってもらい出来るようになったのが3年前です。 今日はほとんどこれで用が足ります。(若い子は昨年子供が出来、結婚し、関西で幸せに暮らしているそうです念のため) 話はまたまた、だいぶそれましたがPCが苦手な中高年も時代の最先端に行くことが出来ます。 ブロードも小さな会社ですが、IT技術を駆使して「ほう・れん・そう」を24時間、365日、タイムリーに出来ない人は要らないと思っています。 そういう意味で携帯メールを使えない人は「駄目族」だと話をよくするもので、大会社の役員さん達や、新しく会った人々は「メル友」になる訳です。 そうそう今回は「引越し始末記-Ⅱ」でした。今回の引越しの第1番目の目的は「娘たちの為」でした。 家庭風呂の概念が変わりますし、設計も自分のイメージそのものです。 東京瓦斯と協賛でキャンペーンをやりたい位です。(東京瓦斯さんからは何もいただいていませんが少し無理してもお勧めしたいのです) 3番目に良かったのがルーフバルコニーのウッドデッキです。ここに友人から貰った80年ぐらいたった「唐松」のテーブルと椅子を置いています。太陽の熱を見事に人に伝えてくれます。 とにかく20年経った建物をここまで直すのは簡単ではなかったと思いますが、最初の古い物を見た時から自分なりのイメージが出来上ったものですから、大体その通りとなりました。(本屋での立ち読みを含め全部で6冊程のリハウスの本を読みました。そういう意味では本の価値はものすごいと思いました。)
12月6日(月)横浜から新大阪の新幹線での移動中にて。 |
「引越し始末記」-Ⅰ |
2004年11月28日 最近、親しい方々から「ホームページに近頃UPしていませんね」とからかわれる事が多くなった。本人も気にしてホームページを見ると9月24日からUPされていないのに気がつき、早速UPすることにしました。(ホームページを作る時、「月2回はUPしないとあきられますよ」と注意されていました。)今回は「引越し始末記」として16回目の引越しの顛末と最近の近況をレポートして見ます。
「モモ&リンゴ」の為に一軒家に引越した事に関して犬好きの方々は「当然」、犬嫌いな方々からは「馬鹿」と感想が二分しておりました。実際にリハウスの工事が完了したのが10月末で3ヶ月も遅れてしまいました。
しかし、新しい(リハウス)家での新しい発見と驚きもありました。娘達も3ヶ月を過ぎるあたりから自分の家(モモは4度目の引越しでした)という安心が出来て来た様でトイレや行動にパターンが生れたようです。
18年前に独立した時に有志による「姫野惠悟君を励ます会」の時、最後の挨拶に「百姓とは」の話をしたことを図らずも思い出しました。 沢山書きたいことがあるのですがまずは「Ⅰ」としてここで終らせて頂き早いうちに「Ⅱ」をUPさせて頂きます。本人はセキュリティビジネスで久ぶりに忙しく?なっています。 11月28日 自宅にて |
55歳の夏の思い出 |
2004年09月04日 今回も8月にupしようとしたのですが、大幅に遅れてしまいました。16回目の引越しは見事な(無残な?)失敗に終わりました。20年も経つ物件のリニューアルは素人が思うほど簡単ではなかったようですが、建設業界の問題(日本の文化?)も良くわかりました。プロ野球界も同じようですが、建設業界は自分たちのことしか考えていない(会社が無い?)ようで「住む人の喜ぶ顔を見たい」と思っているような人たちが極端に少ないことがわかりました。 なんとなくソフト業界のような気がしてとても他人事とは思えないのですが、日本(世界的?)の縮図のような気がしました。 ただ私の友人の元部下の1級建築士が無償でマネジメントしてくれたので、自分のイメージがかなり具体化されたと思っています。 人にわが娘(犬)のために家を買ったというと、犬好きの人は当然との受けとめ方なのにそうで無い人は「このアホが」という顔をするのがとても面白い!でも娘たちが朝早く家中を駆け回り庭との犬用玄関を自由に行き来して、とても元気そうなのがとにかく嬉しい!無理したかいがあったとつくづく思うのですがひょとして犬たちが居なくなったらこの家も要らなくなるのではとそろそろ17回目の引越しを心配しています?
今年の夏もあっと言う間に過ぎてしまいましたが、平日は無論(毎日12時過ぎ)、土日も家に居ないことが多く、ゆっくり、家の中を楽しむ余裕も無いのが残念です。(とは言っても、山を越えたリニューアルも、まだ終了していないのです)でも今年の夏も楽しいことが一杯ありました。別に55歳にこだわるつもりも無かったのですが、普通の会社では役職定年に当たるのと、いよいよ「団塊の世代」が歴史の中心から終わりを告げられていると思うと1つの節目ではと思います。もう1つは「長嶋茂雄」の病気です。僕も長島選手の熱狂的なファンでしたが長島監督には、がっかりさせられてとても残念でした。日本の野球をダメにした張本人の一人と思っていますが、今回のアテネの問題は、日本の戦後というか、高度成長の「終焉」の最後の幕が降りたような気がしています。(西麻布というか霜町の交差点のそばの千里庵の蕎麦屋では良くお会いしました)
例のごとくドンドン主旨がそれていきますが、今年の夏の嬉しかったことを上げてみたいと思います。 連絡先 伊賀焼窯元 長谷園 http://www.igamono.co.jp
伊賀焼きが欲しかったのは、ご承知の方も多いと思いますが、うなぎとかすっぽんの鍋(火力の強い)として有名だからです。家で一番使っているのは2人~3人用の小さな湯豆腐鍋です。この鍋で食べる湯豆腐は最高です。 8月中旬に私の大先輩の別荘に行ってきました。目的は、15匹の猫に合うためです。15匹いや15人の子供たちとご夫婦がどんな生活をしているか、また15人の子供たちがどんなことをしているのか、とても興味があってそれを抑えきれず、ズーズーしく泊めてもらってきました。今までの猫はうるさく尿が臭くすぐ爪で引っかくイメージだったのですが、このチンチラ達は想像を超えていました。動物好きを自負している私でしたが、この子たちには「目からうろこ」でした、でも猫好きの友人たちに話したら当たり前の顔をされた上で「姫野はノラ猫しか知らないんでは」と馬鹿にされたのでした。やはり「事実は小説より奇なり」と言う言葉とともにNHKの高橋敬三アナ(若い人は知りませんよね)を図らずも思い出してしまいました。帰りにせっかく蓼科まで来たので、長坂にある「月舎」という蕎麦屋による事にしました。六本木のカラオケバーを廃業して、5年前に女二人で新しい人生スタートを切った私の古い友人(?)です。2年前に行った時も、カケとセイロを食したのですが、まずくは無かったのですが「良くまあ、ここまで頑張ったなあ」と言う感が強かったのです。今回は全々別物でした。完全に彼女が自分の物にしたソバの味でした。又、汁も前回はソバと同等だったのが今回は完全な「ソバの引き立て役」でした。ゆっくり話をしたかったのですが、5時から9時までひっきりなしの客で、こんな田舎でしかも不便な場所にこれるのか不思議でたまりませんでした。周りにも沢山のソバ屋が点在してました。ひとしきりして、顔を出してくれたので、これ以上飲むかどうか迷っていると言うと、ここへ泊まっていけと言うのだけれど、女4人(メス犬、メス猫)の所では何となく大きなイビキもかきにくいので素泊りだけの近くの場所を探してもらう約束をしてお店が終わるのを待って近くのビールカフェに3人で行きました。真っ暗な中また何でこんなに人がいるのだと思うほど男女がいてびっくり。先程のソバの批評を言うと自分でもそういう意識で日々努力していると素直に言ってくれた。ビールを3杯ほど飲んでB.Bの宿まで連れて行ってくれた。(B.Bはイギリスに多い朝食だけサービスするロッジ風宿) 連絡先 月舎(つきや) http://www.crytus.co.jp/tsukiya/
8月中旬の長野の長坂ではソバの白い花が満開でそのあぜ道にニラの白い花も負けじと咲いておりました。又、「タラの芽で有名なタラの木の花を始めて見ました」チングルマ(高山植物です)を思い起こさせる目立たないうす黄土色の花で言われなければ気が付かないようなものでした。
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「人生に余生無し」 |
2004年05月12日 つい最近、私の義理の母(82歳)が上京して来て、運転手をして親戚などを回る機会が有りました。母は今年、一人息子を48歳で亡くしそのまま、立ち直れないのではないかと心配していたのですが、持病の心臓病もなんのその、右ひざの手術すると言って、張り切っていたのですが、医者から直る確立が少ないと聞かされさすがにそこまでやれないと思ったようですが、なんとプールの水中歩行を始めて私も一緒にあざみ町の「アトリオ」に行きましたが「好奇心旺盛」でいくつも有る施設を次々とトライしておりました。 足の為の新しいサポート用具を買ってあげたのですがすぐ使い始め、杖をついて散歩に行ってしまいました。 母のお供で「あざみ野」の隣の「江田」に親戚がいるとのことで車で送りに行ってきました。なんとその方は満99歳で自分のことはすべて自分で出来、お邪魔したときも庭に出て花を取っておりました。 さらに驚いたのは、80歳の息子さんがとてもお元気でよく話をするのでした。彼は、銀行の八重洲支店長をして、その後10年間は友達の会社を手伝ったのだそうですが、それからは、ゴルフ三昧。ですが、しゃべりは得意中の得意だったようで、久しぶりに話し相手が来たとばかりしゃべる!しゃべる!
たまたま、この日の夜ラジオを聞いていたら97歳のある大学の名誉教授が「人生に余生無し」として講演をなさっていた。確かに日本人の人生50年という気持ちがこれまでの人生観の中で生きていて、これをベースに様々なルールが出来てきたと考えると、今の福祉制度は根本的に考え直さなければならない時期だと思えるのでした。 以上 |
16回目の引越し その2 |
2004年05月11日 連休前に16回目の引越しについてUPしましたが、やはり、レンタルの家での不便さは水周りや火周りのトラブルと言うか、すぐ対応が難しいことが有ります。特に今の家は、特注品、特別仕様品が多く、すでに日本に代理店が無かったり変わったりしているものも多くあります。 確か出来て20年問題が有って当たり前かも知れませんが、それを自分の判断で出来ない所(当たり前です)が問題なのです。 そんな中、連休中にリフォーム業者と打ち合わせをして、家内が最優先することがありました。それは・・・・。 話は大きく飛びますが、私が会社を作り偶然コンピュータ運用の世界の仕事をすることになり今も続いている「コンピュータ運用を考える会」でのこと、ある人に自社の講演をお願いして、懇親会でお話をしていたら、その方は二つの面白いことを言われた。(大阪でもつい最近講演をお願いしました。) 以上 |
16回目の引越し その1 |
2004年04月28日 いよいよ今年は物心ついてからもうすぐ16回目の引越しとなります。引越しに先立って優先したことは、1. 母親の家になるべく近いこと 2. かわいい娘2人(犬)が遊べる庭があること 3. 価格が安く安全な場所であること ここ2年程探していて、偶然当たった感じでした。今の家は4年前にその前の家を売り出したらすぐ売れてしまい、しかも1ヶ月以内に出て欲しいというので慌てて探して、内犬OKの家をやっと見つけたのでした。とても狭い所に鉄筋でうまく作られていて、とてもモダンな天井の高い一軒家でした、しかし、全てが機能的であるのだけれど狭い感じと、鉄筋特有の「夏暑く、冬寒い」のでそろそろと思っておりました。 又、性格的に同じ所にずっといると疲れてくるようなので、気分一新したくもありました。 現在あざみ野の駅前にあるブロードの事務所も一緒にしてコストを少しでも下げることもできそうです。 母親は今までバス停2つ目だったのが1つ目になり、泊まってもよいようになりました。狭いですが娘のトイレとして庭を使えそうですし、コストも事務所を統合する為安くなるようです。とても古い物件なのですがリニューアルに時間とお金が少しかかりますが、最小限にすれば問題無いと考えております。又前面の道路は行き止まりの為、抜け道となることも無く静かで安全のようです。 以上 |
「百薬の長」・・・お酒 |
2004年04月27日 私の人生の中で特に大きなウエイトを占めているのは、お酒と食事です。これがメインではないのですが、手段というか潤滑油というか、これらがそろって初めて楽しい一時を楽しい人達と過ごせることになる訳です。はるか昔に逆登り、初めてのお酒との出会いは小学校5年生の時だったと思います。 私の父は、今は高岡の通りの名前として残っている「延対寺」という天皇陛下が必ず泊まられる高級旅館(現在は宇名月に分家が同じ名前であります。)の後継ぎだったらしいのですが、それを蹴って満州へ行き、満州重工業の工場長をわずか1年やって乳飲み子を抱えて惨めな引き上げをして舞鶴に帰ってきたのでした。 その父が一時期魚屋をやったりしたそうですが、延対寺の90歳のおかみ「延対寺みよ」の紹介で北陸電力に就職し、いくばくかのお金を「延対寺みよ」から借りて、家を建てることになり、「建て前」の棟上げ式の夜のことでした。私の父はほとんど酒が飲めない(ビールコップ1杯で真っ赤でしたが、その上の兄2人は2升酒を飲んだようです)のに、大工の棟梁がさかんに絡みながらコップ酒を勧めるのを見ていて、「僕飲むよ」と言って、コップ1杯のお酒を飲み周りからやんやの拍手を受けたのを覚えているのですが、母に「変だ!家が回っている!」確かに目はじっと一点を見つめているのに、グルグル回っているのでした。でも、気持ち悪くてもどしたりはしなかったのです。 これが、私のお酒初体験でした。 小学校の5年から中学校までは自宅の庭で作った梅から梅酒を、葡萄から葡萄酒を作り。それに同じく庭で取れた白無花果のジャムを入れて飲んだり、サイダーを入れたりして楽しんでおりました。又、子供ビール(牛乳に卵を入れよくかき回して三ツ矢サイダーを入れる)などを作って喜んで飲んでおりました。 高校へ入ってからは、ビールや日本酒を毎晩のように(少しですが)飲むようになりました。 どう言う訳か、父は「安い酒は飲むな」が口癖で、日本酒は特級・ウィスキーはダルマでした。(多分2人の兄が酒で身体を壊し、早死にしたせいかもしれません。) 大学に入ってからは富山の自宅に帰った時は大量に飲むことが多かったようです。記録はビール大瓶28本です。今ではとても考えられませんが、なんとなく飲みながらトイレへ行っていたのか、トイレへ行きながら飲んでいたのか釈然としなかったのをよく覚えています。ただ母親が「酒屋」に20本ビールをあわてて追加したのを覚えています。 東京へ来て浪人生活を一年やりましたが、さすがに浪人の間は毎日飲むことは金銭的に出来ませんでした。フロ屋の帰りにカンビールをたまに買うだけでした。 しかし大学へ入ってからは、ほぼ毎日飲んでおりました。杉並の永福町のいつも行く飲み屋には、ポケットから有り金を全部上に乗せて、お客の残り物のビールとかつまみをもらったものでした。その時にごま塩をつまみに飲むことを覚えました。又、この店に来る暴力団の追い出し業をやり、沢山お酒を飲むチャンスも有りました。 今までにお酒で前後不覚になったことが2度有ります。1回目は大学浪人が決まったときに実家で飲めるだけ飲んでよいと父親に言われ、ビール大8本、日本酒2升を飲み、気がついたら自分のベットで吐いていた。2回目は、大学の倶楽部の新入生歓迎会で、先輩にお猪口で1杯注ぐと、どんぶり1杯の返杯。確かに3杯までは覚えておりましたが、2次会で洋酒を飲んで意識不明。先輩達が担いで私の下宿先まで送り届けて、丁寧に寝巻きまで着替えさせてくれたのでした。これでは先輩達に一生頭が上がりません。 この2回とも次の日は夕方まで頭がガンガン。でもこれ以降不覚を取ることは無くなりました。基本的にはお酒だけを飲むことがない為、美味い物を探して、それを見つけて美味しい酒を飲むようになりました。従って、自分では本当の「のんべぇ」には入らないような気がしてます。 だんだん飲めなくなり、「ツマミ系」と言われる種属に入るようです。 今までの自慢は48歳まで、人間ドックの前の夜、いつものように12時頃まで飲んでいってなんとも無いことでしたが、49歳になって、やはりGTPの指数が上がってきて、人並みの脂肪肝となって来てます。でもほとんど毎日飲んでいるのですが、基本的に一人で飲まないので、必ず誰かと一緒にいる訳です。「楽しい酒イコール楽しい友」が両立している訳です。 最近飲んで美味しいと思ったのは、「竹鶴35年」今までは、バランタインの30年でしたが、いかにも日本人くさい(米のようなにおい)感じがします。でもシングル1杯4700円でそう多くは飲めません。(これでも原価です。)とにかく今まで沢山飲んだと思います。朝、帰ると1円もポケットに入っていないことも多かったのです。又、自分が行く店はなるべく現金で支払って上げたい気持ちも有り、いつも慌てて銀行へ行きお金を下ろしてます。(昔は初めてのお店でもツケをするのが趣味でしたが、心を入れ替えました)まだ飲めそうですが、やはり楽しい事・楽しい友に恵まれ続けることが一番と思います。 一生「百薬の長」であってほしいものです。 おわり |
四十九日 |
2004年02月28日 2月末に義理の弟の四十九日に行ってまいりました。 心配した低気圧の影響も無く、とても穏やかな、本当に冬の能登にしては珍しい日でした。それでも前日の朝は雪がちらついていたそうですが、午後から次の当日まで春を感じる1日となりました。今年の初めに能登空港で能登温泉があると聞いていたので、その源泉を持っている古い旅館「能登の庄」に泊まることにしました。元々能登温泉は「ねぶた温泉」と言われ、野の傷ついた猪が温泉に浸かっていたのを発見されて出来たのだそうです。日本一高いアルカリ温泉と銘打っておりましたが、確かに湯につかるとツルツルになり浴槽から見えるダイナミックな日本海と合いまって誠に心・身体とも癒されるのでした。 この日本海の景色は各部屋も同じで、特に廊下が畳というのが、この旅館の特色でした。温泉も胃腸に良いようで、たくさん飲みましたが、飲みやすい為ペットボトルで持ち帰りたいくらいでした。現在はこの源泉以外にもお湯が出る旅館があるようですが、塩分が多いようだと仲居さんは自慢しておりました。 昨夜から5回もお湯に入るが、あまり熱くないせいかシャワーのような気持ちで入れるのがとてもうれしい。 昨夜特注した7千円もした「ずわい蟹」の「におい」「色」を何度も思い起こしては、湯舟に浸かって日本海の荒波を見て、本場はすごいと思うのでした。 横浜にいて、生の蟹を見つけるといつも自分で蒸して食するのですが、この旅館で最初に蟹が有りますかと帳場に聞いたら「生で」「蒸して」「茹でて」どれにしますかと言う。生でとも思ったが蒸してもらったら、そのうまいこと!又、そのにおいの良いこと!又、中の肉の表面の色の赤くきれいなこと!とても横浜では食べられないと思いました。 いつものごとく9時頃に眠ってしまい午前2時には起きて風呂へ行く。24時間入れるのがとても嬉しいし源泉のお湯がどんどん溢れるのもとても気持ちが良い。 出掛けに若い女将が挨拶に来る。なかなか色白の美人だったが何と義理の弟の生徒だったそうで前の日にわかっていればと少し残念な気もする? 10時から予定通り「四十九日の法要」が営まれ、60人程の人が参加。義理の母は少ないのが少し不満そうであった。 前回の95歳の和尚さんが又、最後にお話になられたが、四十九日とは、式が終わって次第に人々はいがみ合うようになり、それを、手を合わせ拝み合う為の日だと言われる。自分の心を手に託し、合掌し般若に帰す。 今回は、別の若いお坊さんを伴っていたが見た瞬間お孫さんだと思った、案の定その説明があった。この家はうまく行っているのが良くわかる。 それに比べて「海月山 聖光寺」はどうなるのだろうか?老僧の気持ちが痛いほどわかる。 納骨も終了し、料理屋に移り会食となる。 又、その手際の悪さも、初めに老僧が詫びられる。 何もすることが無いが、なかなか美味しい料理が運ばれてくる。どんどんビールや熱燗を飲むがあまり良い気持ちにならない。 義理の弟の死はやはり「無駄死に」死んでしまえば何も無いし、何も残らない。今いる人々の心の中にもほとんど名前が残れば良いほうだろうと思う。そんな気持ちで考えているせいか、ますます酔えない。しかし、葬儀の時に95歳の和尚さんが言った。残った人に「生きていることの素晴らしさ」「生きていることの努力」を亡くなった弟が教えたと言うのは本当だと思う。 自分自身生きている間、とにかく頑張ってみようと改めて、強く強く思い始めることが出来たと思うのでした。 又、人は私が「人を食って生きている」と言うけれど、それが出来る間、出来る所まで、躊躇無く頑張ろうという気持ちを奮い立たせることが出来ました。 義理の弟が私に残した「この事を全うすること」を四十九日で改めて教えられたのでした。 おわり
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どうしてよいかわからない話-2 |
2004年01月20日
いよいよ2004年がスタートしました。かなりの方々が短く感じる9日連休だったのではないでしょうか。(ほとんどお休みになれなかった方々は本当にご苦労様でした)
弟は23代目のお寺の住職で49歳の若さで「悪性脳腫瘍」にかかり、通常3~6ヶ月の生命なのになんと1年7ヶ月も生きたのでした。又その父親もその祖父もガンで亡くなったのでした。
「聖光二十三世鉄眼尚志大和尚」の冥福をお祈りいたします。 何とも言えない話が勝手に増えてくる。何とも言えない年のスタートでした。 おわり
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