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2009年12月16日
乗馬倶楽部が溢れる国 日本
2009年12月09日
亀の子
2009年11月16日
馬語
2009年10月26日
藤田嗣治のエッセイを読んで
2009年10月05日
今風な死に方
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シナリオライターの夢
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心の中の「自民党」
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ラン君の卒業式
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2009年08月05日
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2009年02月15日
さよならスコット
2009年01月27日
2009年は「至福の年」に

 
国内情報(2009年)
乗馬倶楽部が溢れる国 日本

2009年12月16日

来年は2010年問題を控えて、いよいよ日本の戦後を引っ張ってきた団塊の世代が会社の第一線から消える年となって来ました。
年末の挨拶を今年は早目に始めたせいかその方々にお会いする機会がとても多く、当たり前の事ですが今の日本の状況を大変心配なさった声も多かった。
姫野の大学の恩師も教育の立場から日本の将来をとても心配なさっていた。
ヨーロッパやイギリスは資本主義(民主主義)となってから450年、アメリカは200年を経過しているのですが、日本はまだ戦後65年、民主主義はまだ55年程にしかならない。
(ちなみに今の中国は建国1949年(姫野の生れた時)で60年しか経ちません。が、もうすぐ世界一の経済大国になる事が明確になっており、その力を凄く感じます。)

日本について言えば日本をそれなりの国として生かして行く為には今までの企業モデルを大幅に、しかも早急に変える必要が有ると言う事でしょう。
国民の数が明らかに減って行くのに内需拡大など有り得ないのです。
日本型輸出モデルは決して日本の国を豊にしないし、先も無いと思われます。

輸出と輸入のバランスが50対50で良いなんて全く考え違いも甚だしいし、いつも同じ今までの問題を内抱したままでは先は有りません。
やはりグローバル企業に対する日本の各企業の考え方を変えなければなりません。
極端に言えば全世界の人口が60億だとすると世界と日本の売上比は60:1に限りなく近づく事が大切なのではないでしょうか。
その為にはグローバル企業として何が大切なのか?
それを明確にして行く事は大変な事であり、やるべき事も沢山有ると思いますがITの世界から見るとITの思い切った活用が必須であり、すでに海外のグローバル企業では多くの事例も有るのです。

企業のガバナンスやコンプライアンスの遵守。
その為の監査や証明はITの活用以外有り得ません。
私の親しい企業(もちろん日本企業です)ではすでに「世界のIT会議」を毎年開き、残すドキュメント類はすべて英語でやっている所も有ります。
日本のITの独自性とか独立性とかを言っている間に世界はベースを英語で統一しているのです。
又、姫野の先輩後輩が役員や部長でいる外資系企業ではITの効果があがり彼ら(人)のポジションがなくなってきているとの話も聞きました。
特にこれからのミドルマネジメントの人員とコスト削減は大幅に進むと思われます。
外資系企業がかつて持っていた日本でのコンピュータも無くなってしまった所がほとんどとなりました。
又、それに伴って日本のITメンバーも大幅に削減されたのです。
私の大学の恩師(名誉教授)も「グローバル企業としてそんな事当然だよ」と仰ってました。
又、ある会社では社長直轄の短期、中期計画を考える推進部隊を作り、ITと経済を理解している慶應理工学部の管理工学科、早稲田工業経営や東工大の経営工学のメンバーだけからなる経営工学集団チームを作っています。

これらの先進且つグローバルな日本企業がすでに沢山有る訳です。
そしてその中核を成すのがITで有る事が絶対条件と思うのです。

そんなこんなを熱く語ってくれたのが団塊の世代でした。

後10年経つと日本のグローバル企業の成長は著しく、日本には本社機能と研究・開発本部とIT本部しか無いけれども日本は世界からの利益の還元で世界一豊な国になっているのではないか。
気がつけばあちこちに乗馬倶楽部が有り、豊な生活となっているのだと思うのです。
そのスタートが2010年と思えばこれ程わくわくする年は有りません。
長年IT業界で生きて来た者にとってITが正業と並び称されるという夢が真に正夢となって欲しいと切に願いたいものです。
現実の低いレベルで我々日本人は満足する訳は有りません。
日本の得意な「隣のピアノ」理論を良い方に展開し、日本発の「グローバル企業」を1社でも多く世界に飛翔する事を祈念して2009年を締めくくりたいと考えます。

団塊が 戦後を作り ぶち壊す
残念な 事多かりし 日々の事
赤門を くぐれば銀杏 輝けり
カレンダー 受け取る人無く 寂しそう
いつまでも 母の匂いの 古き店
飲む程に 黙っている友 アルコール

追)

またまた久しぶりにアンドレ・マルローの「王道」を読みました。
45年ぶりとなるでしょうか?
青春を思い出させてくれました。
その気持ちで3つ拾って見ました。

 ①
「女をセックスの補足物と考えないでセックスを女の補足物と考える男ってのは気の毒だが恋の年頃だってことを」
  ②
「おれは死を見届けようとして生を過ごしているんだよ」
 ③
「青春とはいつかは改宗しなくちゃならない宗教のようなもんだ」
 懐かしいですね。
昨日の事のようです。

オワリ

亀の子

2009年12月09日

先日亀の出産から誕生までのテレビを偶然見る機会が有った。最近NHKの朝のドラマが「ウェルかめ」で有ったり、今年訪問した屋久島が亀の繁殖地で知られている事も有り、とても興味深く見た。
ブロードで新卒者を採り始めてから5年になるがなかなか思うように行かない。
それが亀の子達が海に出るまでの難関に似ているような気がした。

第一の難関はまず卵から孵って殻から出る時です。
新月の夜に孵化してまず殻から外へ出る訳ですが、早く出ないと太陽が地平線を明るくする頃にはカモメや蟹達が美味しいご馳走として待ち構えている訳です。
従って遅れて殻から出て来た亀の子は単に餌となるのです。
見るも残酷ですがそれが自然なのです。
第二はやっと海に戻れた子亀もほとんどが他の鳥や魚の餌食になるようで、同じ浜に戻れるのは1%以下と言われてます。

話は大分逸れましたが新卒者も亀の子だと思えば良いのだと思うようになりました。
あまりに意識が低いとか家庭の問題だとか教育の問題だとか言いたい事は沢山有るのですが自然淘汰と思えば寂しいのですが納得出来ます。
人は平等では無いのです。
当然親や上司が面倒を見れるのではなく、自力でやるしかないのです。
運が良く能力の有る人が生き残れると思えば良いのです。

とは言っても少しでも良くなって欲しいと思い色々手を打っているのですが、我々が営業マンを育てたいと思っているせいかとにかく難しい。
営業は「営利を伴なう業務」で有り、「心理学」と言っているのですが、それに果敢に挑戦しようとするメンバーにまだ出会っていない。
まあ100人採って1人と思えばそんなに焦る必要も無いのかも知れません。
麻薬のような「営業の楽しさ」を少しでも知り得る事程「人生を豊」にするものは無いと思うのです。
「営業は人生道」と考えている姫野にとって今しばらく「人間力」を身につけた人を育てる事を諦めずに努力をしようと師走の喧騒の中で思うのでした。

追)

新馬調教の「ガイモン」が面白くなってきました。
毛深くバリカンで刈られてお尻にガイモンの「G」と「ハートマーク」をつけられ、しかも頭の上にちょん髷をつけ、回りから「かわいい」と言われるのが何とも楽しい。

調教もかなり進んで来て、もう少し「駆歩」が出来れば即戦力として役立つように思えます。
今回二頭目の調教だったので指導員に色々な質問をしたり、又それに即答えてもらえて実戦出来たりして、かなり自分なりの体験に基づく知識が身についたと思う。
2月までわずかな時間ですがこの厳しい世の中、週末の土日が待ち遠しくてしょうが有りません。
次の三頭目はどんな馬が来るか楽しみです。

世の中に バクが増えすぎ 夢が無い
日本史を 世界史に変える 政治力
冬の朝 陽も寒そうに 顔を出す
来年は もう来ないと 鬼が言う
良し悪しを 時の流れが 弄ぶ

以上

馬語

2009年11月16日

最近人に誘われて相模原に有るアスールと言う乗馬クラブへ行った。
とても小さな乗馬クラブで会員も60人程しかいなくてプライベートレッスンの4回お試しコースに入った。
元々馬を始めたのはあまりのギックリ腰のひどさが原因していたのですが、どうしても腰を張る事が出来ず、しっかり鞍に座ることが出来なかった。
それでもギックリ腰が完治したと言えるくらい腰が良くなって来たので、あまり上を目指して無理しなくて楽しめればと思い込んでいました。
それが、4回の個人レッスンを受けて「あれ、腰の後ろを中心に感じる」事がわかるようになって来た。
自分でもこの年で腰が良くなるなんて思ってもいなかったのにさらに個人レッスンの力は凄いと思うようになった。
そんなこんなも有ってそのクラブにおいて有った面白そうな馬の関係の本をクラブで読むのではなく書店やネットで探して5冊程最近読みました。
訳がひどかったり、興味本位で書かれたりして日本での馬に対する認識がかなり低い感じがしたのですが、それでも「馬と話す男」モンティ・ロバーツ著が印象に残った。
ジェームズディーンに馬を教えたり、エリザベス女王の前で道具を一切使わないで馬の調教を披露したりした有名な男の一生の物語りなのですが心情は「人間だって馬なのだ」が原点なのです。
犬の調教も今はかなり変化して来ており、厳しく折檻するような教え方で無く犬の心を尊重し「褒める」を基本にしています。
以前にも書きましたが、犬達は「無言の言葉」を持っていると姫野は思っているのですが、馬についてモンティも同じ事を言ってます。
馬語は「音を発し無い無言の言葉」で有り、それを理解して紐や鞭を使わず馬を調教する事が出来るのです。
又、家畜と野生動物の違いに関しても野生は子供の間は人間と親しい間柄でいることは可能だが大人になればご存知のようにたくさんの悲劇が生れる。
そう言う意味では馬、犬、猫の順に家畜化が進んで行ったものと思われ、従って人間と一番長い付き合いをしている馬を再発見し、見直す事は大変意味が有ると思うのです。
「新馬調教」がイギリスの社員教育に取り入れられている話をしましたが、今のような企業のグローバル化が叫ばれている中で、文化の違いや言語の違い、宗教や政治の違い、etc.を超えて人を生かしコントロールするのは大変なことで有ります。
欧米が何百年前からグローバル化に力を入れ成功を収めたのも、馬の調教のお陰かもしれないと考えられます。
そんな意味では原点に返って人を見て人の心を読み取る力をつけなければこれからの世の中生き残れない事になる訳です。
我々が「目は口ほどに物を言う」と昔から言いながらついつい言葉や契約書に頼ってしまっているのは、表面的な欧米のビジネスライクな生活を自分の生活にまで取り入れてしまっている大きなミスと言わざるをえません。
感性とか品格とかオーラとかそんな形とか言葉で言い表せない物を大切にするのが日本の基本的文化の底流に有ったのだと思えるのです。
馬に出会って馬語も少しわかり本当に良かったと近頃つくづく思ってます。

欅道 光り輝き 道照らす
モモと来る 欅の葉先 至福色
生きる事 楽しくすると 秘薬有り
馬の鼻 目や口よりも 物を言い
年で無い 年を考え 年過ぎる

追)

先日修善寺と伊東に行って来ました。
伊豆半島は40年程前からあちこち行っているのですが、なかなか「鮎」と「いのしし」のおいしい所が無かった。
今回修善寺の近くに有る「狩野川」というお店で、そこのおやじと親しくなり、自慢の「鮎」と「いのしし鍋」を食する事が出来た。
おやじが自慢するだけに今まで食べた「いのしし鍋」としては最高で有った。
又、「鮎」の開きも家へ持ち帰り食したが大好評で有った。
翌日なじみとなった伊東の「かっぽれ」で大島沖の「金目鯛」のシャブシャブと煮付け、最後に「まご茶漬け」を食べました。

狩野川の いのしし鍋は 伊豆の味
猪が 人の代わりに 鍋となる
かっぽれは 人と魚に 思い入れ
伊東の湯 溢れ流れて 海に出る
一週間 一月一年 一瞬です

オワリ

藤田嗣治のエッセイを読んで

2009年10月26日

10月25日(日)は久しぶりに乗馬クラブへも行かず、いくつかの本を読みふけって2回もゆっくりお風呂に入り1日ボーっとしておりました。
その中で非常に興味を覚えたのが講談社文芸文庫のタイトル「腕(ぶら)一本・巴里の横顔」の藤田嗣治エッセイ選で近藤史人編であった。
近藤さんが書かれた最後の解説「軽佻と硬骨の距離」もなかなかであった。
絵にあまり興味がない方でもエコール・ド・パリの時代の窮児「藤田嗣治」の事は知ってらっしゃる方が多いと思います。
又、「乳白色の肌」の裸婦像と猫の絵と言えばお分かりだと思います。

この本を通して1人の男の生き様をしっかり見せてもらった気がしたのと最後まで日本人として生き通したかったのにそれが出来なかった自分の人生についてその無念さがひしひしと伝わって来るのです。
2度の大戦に弄ばれたとしか思えない男の人生だが、絵の価値しか認めない人々への1人の男の心の痛みが染みとしてキャンバスに残って行くかのようです。
又、藤田の著名な友人達(ユトリロ、パスキン、モデリアーニ等)に対して藤田の画家の目を通したコメントがとても新鮮に感じられます。
是非ご一読あれ。

近頃何となく回りで入院や鬼籍に入る人が多くなって来て自分でも「自分の一生」と言うか「最後をどうするのか?」「どうなるのか」を考えさせられることが多い。
当然と言えば当然の事なのですが「死」を考える事が「今」をいかに生きるかに繋がって来る訳です。
それでますます「心の中」は忙しくなって来るのですが昔程身体は動かないのでどうしても頭の中で考えるようになって残念な結果になる事が多いと思ってます。
今の体力、知力で出来る事をなるべく外でやりたいと思えば思う程時間が無くなる訳です。
でも、本当に満足して気が付いたらあちら側だったと言う事になりたいと思うのですがこればかりは誰にもわかりません。
ただ近頃いつもそう思い続けることが一番の早道でそれ以外の手は無いような気がして来てます。
まして「死」について考えることは必要だが思い悩む事は無駄だと思えてきました。 そんなこんなを考えさせてくれた一冊でした。

地球より 大きな問題 人に有り
澄み切った 空に洗われ 気が晴れる
稲刈られ 淋しげな田圃 冬を待つ
落葉見て 自分の時間 思い知る
人を皆 自分の田畑と 思い込む

追)①

初めて兵庫県の城崎温泉に行って来ました。
京都から山陰線の特急で2時間半もかかり地元の人から「東京から来た」と言うと「珍しいね」と何人からか言われた。
皆様ご存知の志賀直哉で有名な所と言うか「松葉ガニ」で有名と言ったほうが今は分かりやすいと思います。
旅館には「松葉ガニ」と書いて有るのに「ズワイガニ」しか出て来なかった。
(松葉ガニは11月から漁が解禁だからわかってましたが)
関東の温泉場と全く異なっており、7つの外湯めぐりがメインのようで各旅館の内風呂は大きく出来ないルールのようであった。
何か不思議な場所に来た感が有った。

城崎の 外湯めぐりで 疲れ果て
城崎は 千四百年の 湯の香り

 

②

近頃、朝起きてから「縄跳びをやっているつもり」をやってからかなり身体が楽になって来ました。
人に言えませんが裸で縄を回しているつもりで一重飛を100回、片足を左右合わせて40回、2重飛を20回、左右に両足で飛ばして40回程やってます。
その後に大きな玉で背中をゴリゴリ押して出来上がりです。
近頃どうも腿の力が無くなって来ているようで、かなり満足してます。
自転車をやろうかと考えたのですが道具も要らずどこでも出来るので(人前では無理ですが)お金もかからず喜んではまってます。
その内500回程はできるかもと思ってます。

オワリ

 

今風な死に方

2009年10月05日

8/31に「左々舎の茶々(猫)が25才で天寿を全うした」と報告させていただいたのですが、先日お店へ顔を出したら何と電気自動車にはねられて頭を打ち1時間程で亡くなったのだそうです。
ご主人もその様子を話しながら涙ぐんでいました。
本当に今風と言うか先端と言うか茶々らしい死に方だと思いました。
我々人間に対する警告かも知れませんね。
次の茶々が早く来ますようにとご主人にお話しておりました。

茶々
 
左々舎
 

姫野家の「モモ」(14才のダックスフンド)も「リンゴ」が亡くなってから驚くほど元気になって来て、家族をびっくりさせてます。

もも
 もも

先日「リンゴ」の次の「リンゴ」を買う予定で泰野のブリーダーまで見に行ったのですがオリジナル犬と言う新しい掛け合せの犬を自慢していて実物を見てもピンと来なくて帰って来た。
パピヨンとコーギー犬の掛け合わせで15才ぐらいまで生きるのだそうです。
どういう訳か、それが何なんだと腹立たしく思えて何となく機嫌が悪くなってしまいました。
それで「モモ」が親の愛情すべてを受けて元気な間は2番目の「リンゴ」は飼わないことにしたのです。
「モモ」は「リンゴ」が来た時に首の毛が脱毛し、医者からストレスですと言われ、なるべくすべての事を「モモ」からするようにして治ったのですが、どこかで自分に対する親の愛情が減っていたのをずっと感じていたのだと思うのです。
そんな意味では残り少ない寿命を精一杯親の愛情を注いで生き永らえて欲しいのです。
毎朝4:30頃には必ずトイレを片付けてくれと言って姫野を起こすので、ゴルフへ朝早く行く時も目覚ましが鳴る前に起こされます。
こんな時は大変有り難いのですが、夜どんなに姫野が遅く帰ってきて眠たくてもお構いなしなのがちょっと難ですが、朝一番で元気な「モモ」を見る事が有り難く感じられるのです。
まるで孫に構われているダメジイさんのようです。

満足そう モモの顔見て 朝起きる
犬娘 主人手なづけ 得意顔
暑い中 マスクするバカ しないバカ
キラキラの 学生の目に 騙される
疲れたと 言えぬ楽しさ 60年

オワリ

シナリオライターの夢

2009年09月28日

いつ頃かは忘れましたが随分前、多分中学3年生頃ですから45年程も前になると思うのですが、多読乱読のはてに舞台を意識する中で将来シナリオライターになりたいという漠然とした思いがあった。
その頃は自分の能力と言うか読む力が不足していて戯曲を読むとその舞台が目の前に浮かんで来るような気がして、しまいには落語の筋を書くのも良いと考える事も有った。
それはとても長い間思い続けると言うよりは病気みたいに虚弱な身体から定期的に熱が出る程度の物で大人になって丈夫になるといつしか忘れられるようなものだと思っておりました。

所が、最近(2009年7月25日)集英社文庫の早乙女 貢 著「わが師 山本周五郎」を読んで頭から氷水をかけられる思いをした。
山本周五郎と言えば人情物で舞台に良く出ている物と思ってましたが、その実情を明解にしてくれました。
今はもう銀座に無いクラブのママから「この本読みなさい」と山本周五郎の「さぶ」「青べか物語」の単行本をいただいた。
鼻持ちならない高慢ちきな若者(当時27歳くらい)だった自分に世の中を教えてくれる事となった。

是非この本を読んでいただきたいのですが、特に印象深かった所を書き出してみたいと思います。
以下「わが師 山本周五郎」からの抜粋です。

 若き日の周五郎の孤独と絶望。
苛酷な抑圧の下での呻(うめ)きが宇宙から掴(つか)み出した希望の光――あるいはそれは魂と呼ぶべきものかもしれない。周五郎が良く扉に引用したエピグラムのストリンドベリーの言葉、
 ――苦しみ働け、常に苦しみつつ常に希望を抱け、永久の定住を望むな、此の世は巡礼である・・・・・・。
 そこにはたゆまず人生というものと向き合って生きて来た周五郎の共鳴する真実がある。(P13)

 悪性腫瘍のような恐るべき自己肯定の増殖に、歯止めをかけるものは何か。周五郎さんはそれを小説のもつ感動の力で示そうとした。小説の感動は、人の心を動かす。心が動けば、その人の生き方が変わる。そこにこそ、文学という分野が受け持つ本来の使命がある、ということではないだろうか。(P89)

 ことのついでに言えば、太宰治に『一つの約束』と題した小さなエッセイがあって、そのなかで太宰はこんな潔い宣言をしている。
 第一線に於いて、戦って居(お)られる諸君。意を安んじ給え。誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。日本の文学の歴史は、三千年来それを行い、今後もまた、変る事なく、その伝統を継承する。(P139)

 これは言い過ぎかもしれないが、周五郎さんにとって、『おごそかな渇き』が命取りになったことは間違いない。作者は自分の小説に殺される――。それほど『おごそかな渇き』は強敵だったということで、納得するしかない。(P197)

周五郎の人間賛歌は、今日的に限定しないところに真価があるといっていい。明日も、明後日も、五十年後も、百年後も、どう政治体制が、変わり、人間の思想が変わっても、人間が人間である以上、周五郎の作品は、人の心を打つにちがいないのだ。(P229)

 人間を含め、宇宙の森羅万象の悉く、その存在は唯一絶対である。別に片意地を張って強調するまでもなく、君は君であって、ぼくはぼくである。仮に、宇宙を漂う塵のような存在であったとしても、それは他のなにものをもってしても置き換えることのできない、まさに「オンリー・ワン」なのである。
 だが、その芥子粒のような存在を、それが欠ければ宇宙全体の秩序が崩れてしまうほどの絶対性をもって自覚することは、そう簡単なことではない。それが、周五郎さんの言う 〝発見〟であり、その発見が「書かずにいられない」衝動となって、その人を突き動かし、小説を書かせるのである。
〝いい小説〟には、常に新しい人間の発見がある、ということである。(P178~P179)

久しぶりに読んで良かったと思う一冊でした。
秋の夜長と思い長々と書きましたが、早乙女貢もなかなかの作者であり人間だと思えるのです。
これを読むと安易にシナリオライターなんてとても言えないとも思うのです。
是非皆様もこの一冊、いかがでしょうか?

読みあきた 私小説は 棚の中
味深く こなからおでん しみて行く
風鈴の 音聞かずして 秋が来る
みかけだけ 良さそうに見える 新卒者
馬バエに さすがのガイモン 声を上げ

追)①

少し軽いのですが、浅田次郎の「ひとは情熱がなければ生きていけない」―勇気凛凛ルリの色―も読みました。
本のタイトルと内容が妙にアンバランスなのですが、NHKの課外授業の内容も有り気楽に読めました。
課外授業と言えば最近熱燗を飲むと良く人に言うのですが、八代亜紀が「人肌の燗」を子供達(自分の元小学校)に説明するシーンが有り、本当なのか知りませんが、何とおっぱいで暖めた物だと言うのが有り、そんな事も思い出させるのでした。
人生を大変そうに読むのも良いのですが、浅田次郎的楽しみも又、人生を豊にして来れると思います。

 

②

偶然ですが、クレイン東京の近藤所長が浅田次郎と同じ年なのがわかり、この本を差し上げる事にしました。
何となく年代の近い所長に話をする機会が何回か有り、面白い話をいくつか聞くことが出来た。
その中で特に心に残ったのが、イギリスの会社では新馬調教を幹部社員の教育の必須項目としている所が多いのだと言う。
人をマネジメントする為には動物、特に人間と最も長い付き合いの馬の面倒を見れないのはマネージャー失格で有ると言うのです。
こちらも負けてはならないので?ただ馬に乗るクラブで無く所長以下全員が順番に月1回馬や自分を語る会を作って下さいとお願いしておいた。
各個人と馬について語れるなんてこれ程素晴しい事はないと思うのです。

オワリ

 

心の中の「自民党」

2009年09月07日

今回の選挙について私が述べるまでもなく内外のマスコミはもちろん瞬間政治評論家になられた方々も多いと思いますが、一般的にかなり冷めた見方が多かったとも思います。
確かに戦後を任されて引っ張って来たのが自民党で有った事は誰しも認める事で有り、その功績も大きかったと考えられます。

こんな時いつも思い出すのが、堺屋太一が随分昔に言っていた「エジプトのピラミッドは何故あれ程大きくなったのか?そして何故突然なくなったのか?」の問いかけです。
堺屋太一の仮想なのですが、その当時ピラミッド公団が作られ、その当時の最優秀な人々を集めて日夜いかに良いピラミッドを作るかの研究と製作の日々を送っていた。
最初は少数精鋭で活動的で小さな予算でうまく行っていたが、だんだん時間が経つに従い人も増え、膨大な予算を使うようになっていき、その最後で最高潮に達した時に公団は突然内部から崩壊し、それ以降この公団は存在しなくなった。
それ以降ピラミッドは作られなくなった。というのです。

これはすべて人の世について回る話だと思うのですが、初心と言うか創業の精神を脈々と人が繋いで行く事の難しさを言い表していると思います。
現状を当たり前とし、いかにも自分の実力で有るかのような錯覚に陥りやすのが人間で有ります。
従って今回の政治的「自民党」の崩壊をいつも自分の心の中に持ち続ける必要が有ると思うのです。
当然良い意味でも悪い意味でも有る訳ですが、いつも平素心で現実に甘えず、自分を厳しく見つめられるかとなると難しい事で有ると思います。

少し大袈裟かも知れませんが、人類そのものが今回の「自民党」なのかも知れないのです。
人間が種として地球上に生かされてるとしたら、地球のルールを再度一人一人が良く考えるべきなのでしょう。
なぜ人間の種がこんなに短い時間で増え続けられるのか?
他の種を滅ぼす事は地球にどんな影響を与えるのか?
今のような人数=消費=国力の考え方に矛盾は無いのか?
こんな事を考え始めるととめどなく時間が過ぎて行ってしまいますが、すでに日本一国だけを日本人が考えれば良い時代はとっくの昔に終っている訳ですから、考えなければならないことは際限無く有る訳です。
それ程大変な時代に深く考える習慣の無い政党に何が期待出来るのかはなはだ不安でも有ります。
又、選ぶ人々も深く考える習慣が無いのも更に不安で有ります。
そんなこんなを教えてくれ、考えさせてくれた「自民党」の大敗。
これを心の中の「自民党」として自分のこれからに役に立てて行きたいと思います。
皆様もしっかり考えようでは有りませんか。


追)①

2月10日から始めた1日5句の川柳も8月27日に1000句を超えました。
句の出来、不出来よりも「日記のように書く」をモットーにして来た為、ひどい句も多いのですが、自分で納得出来る句もチラホラ出来るようになりました。
(あくまで姫野だけの主観ですが)
良い悪いは別にして区切りの良い句を少し並べて見ます。

  
 記念すべき、
 
第1句
馬の目に 映る姿の 小ささや(2月10日)
 
第50句目
子規と虚子 柿二つに 命かけ(2月19日)
 
第100句目
超えられぬ 死線の淵の 安吾かな(2月23日)
 

第150句目

一粒の 雨の中に春 見つけたり(3月4日)
 

第250句目

走る為 サラブレッドは 美をみがく(3月22日)
 
第500句目
いつまでも 結論出さぬ どじな客 (5月13日)
 
第1000句目
犬のように 馬を手なづけ 足踏まれ(8月22日)
   
 この川柳を作る趣味のお陰で益々時間を楽しむことが出来、無駄な時間と感じることが大変減る事になりました。
  

②

以前お話した四谷三丁目の1日1客しか取らない「大埜」で使われている抹茶を提供している京都のお茶屋「やのじさくえん」の古川町店を探して行ってきました。(2店しか無い小さなお茶屋です)
「大埜」の奥様のご実家の近くだそうで探し当てて行ったのですが、求めている抹茶は本店の三条店にしか無いと言う。
バスや電車での行き方も教えてくれたが新幹線の時間も気になりタクシーに乗り高い抹茶になってしまった。
基本濃い茶用の抹茶を薄茶としてお店で出しているそうで3つの濃い茶用抹茶すべて、龍の昔(\1,575)、翁草(\2,100)、竹の園(\4,200)を買ってきた。
ちなみに「大埜」では翁草を使っているそうです。
かりがねも美味しそうで1つ買ってきました。
後日報告いたします。

オワリ

ラン君の卒業式

2009年08月31日

ラン君の新馬調教は通常6ヶ月なのに、延長されて結局1年間も調教をやり、いよいよ9月1日から会員が指名できる馬としてクラブの会員に提供される事となった。
調教と言っても我々一般会員が何か出来るわけで無く、言われた経路をしっかり回れるかどうかなのです。
8/30(日)に卒業式があり、初めて3級の経路を回るテストが行われた。

ラン君

ラン君(ラン・オブ・ハピネス)は足が弱く何度も騎乗出来ない事が有ったのと、気が小さく突然駆足で逃げ出そうとすることが有ってなかなかレッスンを思うように消化出来なかった。
指導員が朝乗らないとうまく行かない事も多かった。
6~7人のチームで調教して来たのだけれど、姫野一人だけが落馬していないような状況だった。(3回以上落馬した人もいたようである)
しばらくして指導員に教えられたのは、自分が緊張したり恐怖感を持っていたりするとそれが馬にすぐ伝わって馬がうまく走ったり歩いたり出来無くなることだった。
確かに自分の背中に乗っている奴が変だと馬の性格からして気が気で無いのは良くわかる。
又、脚の合図だけでなく声も覚えるようになって常歩、速歩、駆歩はもちろん、声の抑揚も理解するようになって来たようです。

姫野も暴走されたことが1回だけ有ったが回りからは「本当に奇麗な駆足でしたね」なんてからかわれた!
なかなかA馬場から上へ行けなかったが、7月から3級練習会に出始めてから目もかなり落ち着いて来て回りの馬や雑音を気にしなくなり始めた。
駆歩もゆっくりしたリズムで安定していて乗り心地もとても良くなって来てましたし、速歩も8月に入ってから急に安定して来て前の馬にぶつかりそうになったり、後ろの馬が近づいて来ると驚いたりする事も少なくなって来た。
足も毎回水で冷やしてやる事でかなり良いようで有った。

ラン君

ラン君

ラン君

卒業式は残念ながら姫野は初めての3級経路をランと走ったせいかあまり良い成果ではなかったが、熟女達はもの凄い雨をものともせず正装で堂々と乗りこなしていた。

最後に所長から「修了証」を頂いた。

ラン君の卒業式が終ったばかりなのですが、早速9月から6ヶ月間「ガイモン」と言う国産種の小型馬(7歳)の調教をやる事にした。
「ガイモン」は隣りの廏舎にご記憶の方もいらっしゃると思いますが、ムツゴロウ王国でいつもムツゴロウ先生を乗せていた小型馬「モディ」がおり、その兄弟のようにも見えます。
サラブレッドと違う馬の勉強もして見たいと思っていたのですが、姫野的には「犬のような馬」と遊んで見たいとも考えてます。

ガイモン君

ガイモン君

ガイモン君

いつか自分専用の馬を持って見たいと思うのですが、NYのように馬に遺産相続させる事が出来れば良いのですが、自分が先に亡くなると思うと残して行くのは忍びないのです。 そう言う意味で現在の新馬調教は楽しみなのです。

犬のように 馬を手なづけ 足踏まれ
ラン君を 見送ってすぐ ガイモンが
花束が 左々舎の入口 埋めつくす ※1
政治家は 次の選挙に 脅えてる
練切りの 行潦食べ 秋が来る ※2

※1

25歳の左々舎の「茶々」(猫)が8月21日に天に召されました。

本当に大往生でした。

※2

行潦は「にはたずみ」と読み、内水した石の模様を指すそうで茶菓しとして珍重されているようです。


追)

新装版「この日本語の意味が分かりますか?」PHP
(川端英毅 著 2009年8月6日発刊)を読んでいたら面白い言葉を見つけました。
阿吽(あうんの呼吸)
「阿」「吽」はサンスクリット語の字音の最初と最後で密教では「阿」を万物の根元。
「吽」をその帰着する所と説く。
寺院の仁王や神社の狛犬が片方が口を開け、片方は閉じているのも、この「阿吽」を表している。

人間万事塞翁が馬-何が幸、何が災いになるかわかったものでは無い。
「昔、塞翁(国境付近の村に住む老人)の馬が逃げたが、しばらくして駿馬を伴なって帰って来た。息子がその馬から落ちて足を折ったが、お陰で兵役を免れた」という「淮南子」の故事による。
これ以外にもいくつか有りましたが、特にずっと不思議な思いで狛犬の口を見ていたのでとても楽しかったです。
頭を休める為にはこんな本もたまには良いと思いました。

 

オワリ

墓参りに行って来ました

2009年08月19日

8月13日(木)に東京の父と思っていた小倉一春さんと東京の兄と思っていた柴田亮介さんの墓参りに行って来ました。
お2人とも昨年亡くなられてたまたま八王子の東京霊園に埋葬されておりました。
行きは下の道を走って1時間半、帰りはカーナビに従って圏央道から府中まで高速に乗り1時間で帰って来ました。

   

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東京霊園の道路を挟んで北側に有る八王子霊園に確か20年前に阿部正さんのお墓にお参りした事を思い出し、受付で10分ほど粘って場所を探してもらった。
おかげで20年ぶりにブロードの設立の時にお世話になった阿部さんにブロードの現状を報告することが出来た。
車の中に有った「ブロードウェイレター」を見たら平成元年2月1日没となっていた。
その時も1周忌近くに墓参りしたので実に20年ぶりで有った。

>

又、私の義理の兄も先日亡くなり、八王子霊園に墓を求めたとの事であったので何となく縁が有るなあと感慨深いものが有った。

蝉の声 子守唄となり 秋が来る
蝉食べて カラスが残す 羽根2枚
お前さん 仲間に入れると 馬が言う
助けられ 初めて人の 奥を知る
有難や 道を教える 客多数

追)

3ヶ月程前に偶然伊坂幸太郎の「死神の精度」を読み、明治、大正、昭和のべたべたした私小説的な本が多い中、こんな作家がいたんだと思い、しかもまだ38歳の若さで有る事に驚きを覚えた。
「死神の精度」は本屋で偶然見つけたのですが2週間程前電車の中吊りに「週末のフール」の広告が有り、早速買って読んで見た。
これもなかなかの切れ味で、それから「グラスホッパー」「オーデュポンの祈り」「重力ピエロ」「魔王」「アヒルと鴨のコインロッカー」「陽気なギャングが地球を回す」「陽気なギャングの日常と襲撃」etc。
片っぱしから読みあさった。
超現実的な手法で有り、時間と場所と空間の捩れを巧みに操るこの作家の将来が大変楽しみだと思うのです。
出来ればもう少しゆっくり本を出版して息の永い作家になってもらいたいとも思うのです。
皆様も夏らしい日が無かったこの夏に一冊はお読み下さい。
きっと頭の中が「きれい」になると思います。

オワリ


 

車に魅力を感じない社会

2009年08月05日

最近の世の中を不思議に思うことが多くなって来て、別に自分で負える訳でも無いので気にする程の物でも無いと考えるのだけど自分だけが異常に思えてくる事があります。
特に自分が始めたブロードで新卒者を中心に採用を行ってからいやが上にも若い人に対して注意を払うようになって来ました。

他社の自分の友達なんかと話をしても似たり寄ったりなので、特にブロードの新人達が特別な訳ではない事が良くわかる。
でも余りに打たれ弱く、自己虫(中心)であるのが可哀想な気もするが、自分の勉強も有り、新卒者は私くしの机と、机を並べて1年間直接指導している。
いい人物だなと思っても1年で半分以上は辞めて行くが、何となくそれで良いと思う気もしている。(逆に辞めない会社は変なのかも知れません)

自己虫を 捕らえてほしい 新卒者
何でまた こんなヤツだけ 採る会社
もう駄目と 思いながらも アドバイス

人生とか仕事とか顧客に対する考えや想いが希薄なのに較べ、男女の話には突然目の輝きが変わる。
文化と言う物(目に見えない)にはまったく無縁と言うか興味を示すことに慣れていないようだが、一人で居るのが寂しいのかとにかくパートナーにはこと欠かないようだ。

又、家族でも親が自宅での半同棲を喜んで、部屋を提供しているなんて話を聞くと世も末のような気がする。

昭和30~40年代では、今に言う「婚活」には車が目的のための手段として必須でした。そんな意味では今の若者たちはそんな面倒くさい事をしなくても、とりあえず簡単に肉体関係を作って、だめなら又別の物と取り換えれば良いような気になっているのではないか?近頃のマスコミやテレビなどを見ていると益々そう思えて来る。
種の保存にとって大切な事なのだが、人間のガードと言うかプライドが下がって来ているようにも思えます。

そんな社会に車に魅力を感じる人も少ないと思う。価値観やステータスが戦後60年を経てやっと変わって来たと言うか、まともになって来たのかもしれない。
人マネと言うか西洋のマネをしても日本の大切な文化を維持し新しくして行く事は出来無いと思うのです。
そんな意味では今回の恐慌は、日本にとってとても良かったのでは無いかとさえ思ってしまう程です。

それから海外に行っていつも思うのは、日本の良さです。
安全、安心で街(全国)全体が綺麗、素晴らしい伝統文化と素晴らしい食文化。
我々はもっともっと日本に自信を持って世界に物だけではなく文化の輸出をすることによって世界の平和を維持することが出来ると同時にそれで日本が唯一生き残れる道を作れるのだと思うのです。
例えば相撲など見ていても、いつまでも本場所を日本でやっていていいのか?
これだけ世界の若者が活躍しているのだからモンゴルと他の国で年2回は本場所を移すことぐらい考えるべきですが、でも東京・名古屋・福岡の3ヶ所は必ずやるなどです。
そうすればイギリスのように本家本元を守ることが出来ると同等に、世界に広める事が出来るのだと思うのです。
日本標準イコール世界標準を作って行くことが今生きている我々日本人の使命で有り唯一子孫の為に残してやれる事だと考えています。

追)

耕 治人(こう はると)の「一条の光」
「天井から降る哀しい音」「そうかもしれない」などを読んでいたら千家元麿(せんげ もとまろ)が書いた
「この世に招かれてきた客」の詩が有りました。

私は神に招かれて
此世に客に来たのだ
私は生まれたのを喜ばなくてはならない
生まれたことを思つて
私は嬉しくて嬉しくてたまらない
花は神に招かれて嬉しさうに咲く
たとへその生命は短くても
彼女は実を結んで散つてゆく
私も招かれた客のやうに
歓びと感謝の詩を歌つて去つてゆかう
死に招かれたら喜んで去つて行かう
他の客は次ぎ次ぎに来り
私の席に着くだらう。

こうゆう気持ちに少しでも近づいて行く努力をしたいと思いますが、アメリカで壊れた腸もやっと良くなりほっとしています。

腸の虫 やっと善玉 勝利する
体調が 急に良くなり 真夏来る

オワリ

3000km程走って来ました
2009年07月22日

アメリカから帰国してすぐ6泊7日の日本秘湯巡りの旅に出かけました。
発端は昨年亡くなった小学校と高校の同級生の藤野君の一周忌に行く事でした。
小学校は1クラス60人で16クラス有った程のベビーブーマーの時だったのですが、奥田小学校の1.2年生と5.6年生の時と富山高校同級で東京の大学に出て来て何度か会ったりしたのですが、何か馬が合って今だに富山の唯一の付き合った友人で有った。
姫野は小学校3.4年生の時福井におり、彼も最後に落ち着いたのが福井のあわら市のお寺の住職兼幼稚園の園長であった。
そんな事も有り、年何回かはやり取りが有った。
ところが昨年6月に60歳になって息子にすべてを譲り渡して自分の時間を持とうと思った矢先アスベストによる中皮腫となってわずか3ヶ月で肺ガンで亡くなった。
しかも、最後を自宅でということで退院する朝心臓麻痺であっと言う間の他界だったそうです。
今は息子さんがお寺の住職と園長さんを引き継いでおり、100人を超えると言う園児達と忙しい日々を送っているようです。
とにかく一度お寺に行ってお別れをして来ようと思ったのですが、
これだけを目的に行くのは面白くないし、藤野君も喜ばないと思い、思い切って裏日本の秘湯めぐりを計画して実行した。

   

先ず、7/12(日)、13(月)は福井県小浜市(アメリカのオバマで有名になった)近くの三方五湖に有る「虹岳島荘」(こがしまそう)に、
7/14(火)は新潟県岩船に有る吊橋と離れの宿「鷹の巣館」
7/15(水)は秋田県強首に有る「樅峰苑」(しょうほうえん)
7/16(木)は青森県十和田八幡国立公園に有る「温川山荘」
      (ぬるかわさんそう) 
7/17(金)は栃木県西那須塩原に有る「下藤屋旅館」
とすべて「日本秘湯を守る会の宿」の本から適当に選んだものです。
1日500kmを超える移動も有り、あまりに車に乗る時間が多く、運動不足となり、しかも様々に工夫された料理が出る為1週間で5kgも重たくなってました。
さすがにこの様な旅行は今後出来そうも有りませんし、やるべきではなさそうです。
これを落とすにはかなり努力が必要なようです。
でも、楽しい旅行でした。

トピックスを少し紹介してみます。
まず「虹岳島荘」ですが、

ゆらゆらと水面に映える 虹岳島荘

と言った感じで三方五湖に面した旅館ですが、沸かし湯で有るのと湿っぽさが気になりましたがおやじが自慢するだけに食事は素晴しかったです。
ここへ来たのは、40年ぶりに日本三景の一つで有る「天の橋立」へ行く事と藤野君にお別れを言う為でした。
でも、今回初めて行った常神半島の先端の1千年を越えるという「常神のソテツ」を見たのですが、その半島の景色の素晴しさと三方五湖の奥深さにもの凄く感動しました。
夏の湖のような日本海と汽水湖で有る入り組んだ三方五湖の絶妙なバランス。
たくさんの画家や小説家がこの旅館を常宿にしているのも納得出来ました。

   

   

同級生 骨とゆっくり 話する
あっさりと あの世に行くなと 語りかけ
入口は 回転橋の 天の橋立
原発が 自然豊な 街作る
失敗を 時差ボケだと 笑い捨て

2日目に藤野君のお寺に寄り、お昼は楽しみにしていた富山の西町に有る「大喜」ラーメンを食べた。
富山市内はとても寂れたような気がしましたが、いまだ大喜の本店は昔のまま存在してました。
小700円、大1000円、特大1400円の3種類しか有りません。
さすがに「特大」は無理と思い「大」にしましたがその味の濃い事!
ガツンと来る味と言うのですが、昔(30~40年前ですが)はその汁をすべて飲み干したのですが今回は一口も飲めなかった。
太目の麺とチャーシューは絶品でしたが、しな竹は塩の戻し方が足りないのではと思う程でしたが、客入りは相変わらず良いようでした。
これで後5年は食べなくて良いと思って次の新潟へ急ぎました。

「鷹の巣館」は、

   

吊橋を 渡って入る 鷹の巣館
風呂上り 川面の風が バスローブ

温泉も掛け流しで(無色の源泉は50℃)水で調整しないといけないのですが、24時間入れて、その湯量も質もとても良かったです。
しかし、料理は種類も量も多いのですが、全くの素人料理(何を食べてほしいのかわからない)でがっかりした。
全部良い所はなかなか無いものです。
ここも芸能人や政治家が離れを利用して有名なようですが、しっかりした料理人を置かないと先はないと思った。

「樅峰苑」は昔の庄屋の家を改築して宿を提供しているのですが(テレビでご覧になった方も多いと思いますが)各部屋にはテレビもトイレも無くゆったりした時間を感じさせてくれるのです。

   

   

窓ガラス ゆらゆら見える 樅峰苑
テレビ無く 刺身も無い おもてなし
ぜいたくな 旬だけ並べる 樅峰苑
旅にでて やっと筆まめ とりもどす

16代当主の「小山田 明」さんと少し話しが出来たのがとても良かった。
すでに17代は後を継ぐ為に「日本秘湯の会」の会長の所で修行に行っているのだそうです。
お湯は鉄分を多く含んだかけ流しのお湯で最近新設された露天風呂もなかなか良かったし、料理もとても良かった。
又、日本に3本しかないと言うとても珍しい「タガヤサン」の床柱が有った。

「温川山荘」は、

   

奥入瀬の 始まりとなる 温川山荘
あふれ出る 湯量の豊かさ 満喫す
十和田湖の 乙女の像は メタボかな

どちらかと言うと「川釣りの宿」のイメージだった。
ここだけが「ウォッシュレット」が無かった。

最後の「下藤屋」は十和田湖から東京へ直接帰るのは少ししんどいと思って取ったのですが硫黄が噴出する麓にあり、硫黄の匂いが強い硫化水素のお湯でしたが皮膚には良さそうでした。
しかし、とにかくお客が多く、都会の宿へ来た感じがした。
ホテルの外に3つの共同風呂も有り、湯巡りも楽しめます。
食事も良く有るものばかりで、その割に値段が高いとも思われるが、東京から近いのが良いのでしょう。

   

ツバメ飛ぶ 下藤屋の窓 夏が来る
高温の 硫黄温泉 下藤屋
また来ると 秘湯の旅は 続きます

追)

何故こんなに無理なスケジュールにするのか自分でも疑問に思う事も多いのですが、やるからには中途半端に終らせたくないという気持ちが強いからだと自分を慰めてます。

アメリカのタンパを朝早く出てボストンに行き昼食をしながら夕方までミーティングを行い、夜は7時にはNYで宴会をやった頃を懐かしく思い出します。
それでもその時は当たり前と思ってましたが、今でもそんな気持ちがまだどこかに残っているのかも知れません。
このレポートも夜8時に眠って12時半に起きて早朝の1時から3時頃まで書いて、それから3時半頃から5時頃まで眠って、今半蔵門線のたまプラーザ駅6時19分の急行に乗って「追)」を書いているのです。

残り少ない時間を少しでも有効に使いたいと思う反面、そんなに無理しなくてもとも思うのですが、書ける時に書いておかないと忘れてしまうと言うのが本音かも知れません。
忙しいと言って心を亡くす事だけはしたくないと一生思い続けたいのです。

あまりのめちゃくちゃな時間の使い方にも長女「モモ」は文句も言わず「何してんのよ」
と言う顔をして時々目を開けてじっと見てます。
「リンゴ」が亡くなって早や1ヶ月ですが「モモ」のおかげで本当に助かってます。
今まで最も早い夏休みを終え、何とも言えない充実した気持ちになってます。
梅雨の晴れ間ばかりのお休みでしたが本当に良く晴れると思いました。
皆様も是非充実した夏をお過ごし下さい。

オワリ

 

あっと言う間の出来事でした
2009年06月24日 

昨日の朝5時40分に末娘(犬)の「リンゴ」が12歳で亡くなりました。
ここ2週間程食欲が無く無理に食べさせたり、点滴の注射をして貰ったり(人間と異なり24時間の入院となる)してましたが、吐き気がひどく、どんどん衰弱して10㎏の体重も7kg程になっていました。
医者の診断は「肺がん」と思われるが手術以外に可能性が無いし、もし手術がうまく行ってもどれだけ生きられるかの保証は出来ないと言われていた。

なるべくならば痛い事や慣れない入院などはさせたくなかったのでせめて食欲だけは元にして腹一杯食べさせてやろうと努力したのですが病魔の力にはどうすることも出来なかった。
とにかく回りに気を使う素晴しい犬だった。
少し教育しただけで散歩にリードもいらなくなって横断歩道の前では必ず停止するし、「待て」と言うと私がかなり前に進んでいてもずっと合図するまで待って居た。
散歩している間私の一挙手一投足を見ていて離れる事はなかった。
確かにシープドック系は頭が良いと言われていたが本当にそのお手本のような犬だった。
ただ気温が25℃を超えると小さい時からかなり辛そうでしたが、たまの東京の雪などにはおおはしゃぎしてました。
食欲がもの凄い為5年程前に12kg程有った体重をエサの種類や量を調節して10kgを維持させるように努力して成功していた。
上の娘の「モモ」はもうすぐ14歳となりますが、2年前から2度の乳腺ガンの手術をして8個のオッパイすべてを取ったのですが現在異常とも思える程元気で動いてます。
その「モモ」は私のベットの上でいつも「リンゴ」の顔を舐めてやっていたのですがリンゴが病院に行き始めてから急にリンゴを無視するようになった。
薬のせいなのか病院の臭いが嫌なのかわからないが退院してから一切自分から近づく事はなかった。
本当に冷たい女だと思った。

リンゴの最後の仕事は88歳の義理の母が膝の手術して家に居た時、べったり側にリンゴがついていて母を守っていた事です。
階段などゆっくり降りる時もすぐ側で見守るようにしておりました。
その力も有って犬嫌いな母もみるみる元気になったのでした。

思い出せば切が無い程の思い出を残して行ってくれたのですが、あまりのあっけ無い幕切れに一日一日の命の大切さ、生き方の大切さを改めて考えさせられました。
まるで私の最後の予行演習をして行ってくれた様な気がしてます。

 無いしっぽ 追っかけ回す わが娘

老犬の 優しき目を見て 人を知る

もういいと 老犬の目が 合図する
老犬が 先に教える 旅立ちの日
まだ早い あの世のとびら 開けさせぬ
明日の朝 迎えることを 祈るのみ
一瞬で 魂しい無くなる 犬を抱く
物言わぬ 見慣れた毛皮に 語りかけ
コーギーの 旅立ちの日 梅雨晴れる
しみじみと 時間とともに 涙落つ
コーギーの 魅力に負けて 終わり来る

先行って 待っててやると 犬娘

追)娘達とほとんど夜は同じ部屋に眠っていて「モモ」はベッドの上、「リンゴ」はベッドの横に特別に作ったベッドで眠ることが多かった。
そのせいか最後の1ヶ月程を完全に見取ることが出来た事が自分の慰めで有り、自分の最期も教えて貰ったような気がする。
しかもその日の内に骨にしてやることが出来、すべてを見届けることが出来た。
人も動物も食べられなくなる事で身体が衰弱し、痛みや苦痛からだんだん解き放されていくような気がする。
ただ人間は強く死を意識するが犬は最後まで生きようとする。
犬に死と言う概念は有り得ないと思えるのです。
ここ2週間程辛そうな息と夜中に何度と無く嘔吐したり動き回ったりであまり自分自身眠ることが出来なかった。
とても哀しい事ですが、それでもこれを読んでくれた人に「だから動物を飼うのは嫌なんだ」では無く「是非動物との楽しい共同生活」をお勧めしたいのです。
いつか別れは訪れるのですがその哀しみをはるか超えてあまりある物がきっと有ると思います。

オワリ


 

 
小さな・・・ですが
2009年05月25日 

5月末から6月初めの出張が無くなって時間を持て余しています。
本もドンドン読んでたくさん買って来てもすぐ無くなってしまいます。
将来、会社を辞めたら本当に暇になってしまうだろうなとつくづく考えさせられます。
自分のローソクの灯が一瞬でふっと消えれば良いのですが、だらだらと生き延びると最後の仕上げで躓く(これも良い字ですねえ!)ことになりそうです。
今日病院の帰り屋久島の「心臓破りの坂」で息が上がった事を思い出し、何かをしようと考えたが、やはりすぐ良い案が浮かんで来ない。
それで、これから本郷の6階の会社まで階段を上り下りする事を考えた。
1階分の階段が20段有るので連続して100段上り下りすることになります。
下りは何ともなかったけれど一辺に登り切るとやはりかなり息が切れて汗を掻いた。
確かに登りはエレベータやエスカレータに乗るケースが多く、手に荷物などを持っていない時など是非歩いて見ようと思う。
これで息切れが解消すれば安いものです。

今までUPしようと思いながら忘れてしまう程小さな事なのですが、少し整理して見たいと思います。

近頃1人で参加できるツアーが増えて来てますが、ホテルの相部屋の使用だと安くなる事が多い(姫野の場合は残念ながら雷持ちの為無理ですが)のですがトイレの問題が有ると思います。
特に臭いの為に嫌な思いをする事も有り、我慢したりして便秘になる人も多いと思うのですが、臭い消しの良い方法が有ります。
ホテルはユニットバスが多く、バスタブとトイレがセットの狭い所が多いのですが、熱いシャワーを出しっぱなしにしてお湯を溜めるのです。 水蒸気が一杯になり、鏡なども見えなくなるのですが、この状態だと臭いはすぐ無くなります。
部屋が乾燥している場合にも使えます。
ただやり過ぎると煙探知機が作動したり、フロントから電話がかかって来る事が有ります。
部屋とバスルームのドアは大きく開けない方が良い時も有りますのでご注意下さい。
(以前洗濯物を早く乾燥させる方法はお伝えしたと思いますが、大きなバスタオルで巻いて何度も踏むのです)
又、旅行で必須と思うのはハンドクリーム(保湿クリーム)です。
手はもちろんですが、脚なども乾燥で荒れる事が多いのです。
一般的に乾燥しているケースが多いので目薬なども必須だと思います。

話は飛びますが4月中旬にラン(馬)に右足の小指を踏まれてとても痛い目に遭いました。
一人でランと居る時は何でもなかったのですが、その時女性が厩舎の中のボロ(ウンチ)を取ろうとしてランが驚いて前に出て来たのです。
その痛いの痛くないの。
でもその時は我慢して障害レッスンにそのまま出たのですが、戻ってきて靴を脱ぐと小指が腫れており、別の女性が馬の脚を冷やす氷を持ってきてくれた。
多分右小指が折れたのだと思ったが、時間も無く医者にも行かずそのまま海外出張に出かけてしまった。
その為か1ヶ月程まともに歩くことが出来ず屋久島への挑戦となったのです。(しかも20年前の富士山に登った時の古く少し窮屈なトレッキングシューズを履いてました)
やっと最近靴を履いても痛くなくなり、ゴルフでも影響しなくなって来ました。
馬はとにかく大きいので本人(馬)が何とも思ってなくても人間には思いがけない事故に繋がる事も有ります。
乗馬を続ける事はかなり大変な事だと思いますが、それがさらに馬との生活を楽しい物にするのかも知れません。
(とは言ってもクレイン東京の指導員でも怪我や骨折をする人がかなりいます)
犬とは違う野生との楽しみかも知れませんが、その分リスクも有ると言う事ですね。

またまた話は変わりますが、近頃行くお店が「付け」はもちろん「カード」も使えない店が増えて来てます。
現金を用意するのは大変な気もするのですが慣れればたいした事は有りませんし、飲食店の本質を考えれば現金主義で安くするのが道理だと思います。
今までの経験からするとどこか美味しいお店は現金主義で長い間生き延びて来られたと思うのです。
又、そう言うお店は一番美味しい旬の食材を見事に料理してくれるとも思うのです。
最近ある方に本郷で120年以上続いている鰻屋を紹介したのですが、その3人の話しがとても面白かったので紹介させていただきます。

『3人でそれぞれ「上鰻重」と「きも焼き」を注文し、3人とも言われた通り山椒は鰻では無くご飯にかけました。
感想としては、鰻については柔らかくて絶品という点では3人とも意見が一致しましたが、たれについてはA氏は「もう少し甘めが良い」、B氏(自称鰻好き)は「ちょうど良い」、C氏は「もう少しとろっとしても良いかな」でした。』

自分に合ったお店を探すのは本当に楽しみでも有り面白い事でも有ります。

追)5/19に京都の東寺に寄ってインフルエンザのメッカの大阪に行って来ました。
五重の塔は御存知の通り世界遺産となり姫野が40年程前に見た時よりとても整備されており驚きましたが、本堂の中に弘法大師の言葉がいくつか紹介されていました。
(五重の塔は高いため雷が良く落ち火事で焼滅することが多いのだそうです)その中で「忙しい」という字は「心を亡くす」という意味だと書いて有ったのがとても心に残りました。
忙しさにかまけ本質を見失っていないか改めて考えさせられました。
性格的には「忙中閑有り」「閑中忙有り」と思っていたのですが当たり前の事を言われてメモして来ました。

   

   

関西を インフルエンザ 飛び回る
五重の塔 東寺が見える 京都駅
五重の塔 雷様の 大好物
大病院 年寄サロン 影もなし
今日も又 生き延びたと 薬飲む

オワリ

 

サラブレッドは空も飛ぶ
2009年05月14日 

4月26日にアメリカから帰ってきてすぐに定例の5月末から6月初めの海外出張をインフルエンザ対策の為早々に中止した。
もう10年近くも毎年の恒例の海外出張だったのですが、秋に出来れば行きたいと思うのですが今の状態だとこの不景気とインフルエンザはしばらく続きそうな気がします。
色々な人がすれ違う空港が最も感染の可能性が高く、又、飛行機の中で誰かが発症となるとこれ程最悪な事も有りません。
何となくほっとした気持ちと少し寂しい気持ちも有りますが、時の流れに身を任せるしか有りません。

昨年9月にUPした「ラン・オブ・ハピネス」(馬)についてレポートします。
半年の新馬調教を終えて本当は終了の予定だったのですが、身体が出来上がって無くて腰や脚の故障が有り、ほとんど乗れずこのままだと熊本送り(?)かと思っていたのですが熱心なサポート女性達の働きかけで後、半年調教をする事になった。 女性5人男性2人で6ヶ月で1人12万を払うことになった。
「ラン」は1人(頭)の調教だと3級経路も出来るような時も有った。
けれど、集団の中に入ると前の馬を追い越そうとしたり駆けっている馬とすれ違うと急に駆けよろうとしたりする。
何回か振り落とされた人もいたようですが、とても憶病で新しい物を見たり、聞き慣れない音が聞こえると早く自分の厩舎に帰りたい為に急に走ったり、バタバタする事が有りました。
そういう時は首を下げることが多く馬の首を上げる為に手綱を少し持ち上げる為腕力が必要でした。

   

今回久しぶりに連休の最後の土曜日に乗ろうと思ったのですが、休みが多くて運動不足の馬がエネルギーが有り余っていたせいか、最初指導員が乗ってチェックしていたらロデオの馬のように飛んだり撥ねたりでとても驚かされた。
その時の馬の目はかなりきつい目だったが、しばらくするといつもの落ち着いた目になって来た。
馬は運動不足だとどこかでエネルギーを発散させてやらないといけないようです。
次の日曜日は大変落ち着いていて駆歩、速歩、並歩ともよかった。
でも、姫野の感じでは「白い馬」が嫌いなようで乗り手が声を掛けたり身体を叩いたりして馬を落ち着かせる必要が有るようです。
洗い場の「ラン」は本当に甘えん坊で姫野が来ると「角砂糖」が貰えると思って催促する。
隣の馬などと遊んでいると大きな目を剥き出してこちらに来いと言っている。
犬のようにかわいい。
何となく自分が乗っている時は心が通じて大人しい気がしてならない。(自分の錯覚ですが)
身体もしっかりして来て、後3ヶ月でいよいよ一人前の馬として会員にデビューする事になりそうです。
あまりに甘やかされて来たのでいろんな人が乗るとストレスが多くなり、噛み馬にならなければいいと思うのです。
残り3ヶ月を「ラン」と充実した時間を過ごせれば良いと思い、他の馬を指名しないで楽しむ事にしました。

   

話は飛びますが、最近JRA競走馬総合研究所の「楠瀬 良」さんの3冊の本を読みました。
現在絶版となった「サラブレッドはゴール板を知っているか」を図書館で借りて来ました。
又、「新アルティメイトブック」と「サラブレッドは空も飛ぶ」を買いました。
馬好きの方には是非一読いただきたいと思います。(英文も含め何やかんや馬関連で20冊程読みました)
サラブレッドには私生児がいないと言うのがとても面白く、すべてのサラブレッドは遡ると4馬の血統にたどり着くことも初めてわかった。
馬によってはゴール板を知っているのではと著者の推測では有ったが、答は無かったものの馬を知るにはとても楽しい一冊だと思います。
又、サラブレッドは空も飛ぶの意味はわかりますかとクレインのクラブの友達や指導員に聞いても知っている人は居なかった。(副題は「馬と競馬の博物誌」となってます)
あまり本の内容について書かない主義なのですが、この意味は血統のいい牡馬が繁殖の為繁殖時期の違う南半球と北半球をジェット機に乗って移動しているのだそうです。
それも現在では100頭程にもなっているそうです。
世界のグローバル化の波が馬の世界にも押し寄せて来ている訳です。
馬についての疑問が次々と明らかになる本当に楽しい本です。(馬の好きな人を口説いたり、話のネタには持ってこいです)
「新アルティメイトブック」は世界の様々な馬の写真が載っており少し高いですが(6500円)美しい本です。

最近ニュースでアメリカのテキサスで馬に乗った酔っ払いが交通違反の反則切符を切られたそうです。
その時の馬はどんな気持ちだったのでしょうか?
馬に慣れない人が馬に乗ると馬は背中に魔物が乗ったように感じるのだそうです。
酔っ払った主人を乗せた馬はじっと我慢していたのでしょうか?
車社会はわずか100年ですが、人間が馬との共生により文明を起こして来た事は歴史が証明した事実で有り、多分1万年以上前からの良き友達だったはずです。
我々の生活の中には馬に関係している言葉がたくさん有るのも一つの証明だと思うのです。
日本でも戦中はもちろん戦後しばらくの間までたくさんの馬が人間の為に働いていた訳です。
そんな馬との交流をもうしばらく続けたいと願う今日この頃でした。

オワリ


 

 

ついに縄文杉に会って来ました
2009年05月08日 

「10年程前にアメリカのヨセミテ公園に有るジャイアントセコイア(2000年)に会って以来、7200年経つと言う日本最古の縄文杉に何とか会いたいと思ってたのですが5月連休に運良く予約が取れてチャンスが巡って来ました。

まず宮崎のシーガイヤへ泊まってPHOENIX COUNTRY CLUBでゴルフをやり、レンタカーで鹿児島空港へ。
その後屋久島へ行くコースを取りました。
Phoenixでは高千穂-日南-住吉の3コースを回り、快晴の中ゴルフを堪能しました。
高千穂コースが一番難しく、しかも最初に回ったせいか後の2コースは楽に回れました。
前も後も2ホール以上空いたことも有り、又各コース毎にバーディも有り、貸しクラブの割にとても良かったようです。
キャディも小生と同じ年で、しかも25年間もこのコースでキャディをやって隅々まで知り尽くしていて大変有り難かった。

   


フェニックス ゴルフボールは 松の中
シーガイヤ 温泉宿に 早変り

シーガイヤから鹿児島空港までは車で2時間半、屋久島までは飛行機で30分、高速船で2時間ですが、今回は時間をお金で買うことにしました。
例のごとく前もって本を読んだり勉強したりは全くしなかったのですが、それでもトレッキングシューズが必要なのと、屋久島は月の35日は雨が降ると言われる程雨が多い為その準備だけはして行きました。
ギリギリの予約だったので一般的なホテルや旅館はすべて駄目で民宿のキャンセルが有ってやっと泊まれたのです。
民宿の風呂からは海が見え、その向こうに種子島が見えていました。

   

屋久島空港からレンタカーを借りたのですが、何とこの島で15万キロも乗られたホンダの古いシビック車でしたが、トヨタのレンタカーよりはるかに乗りやすかった。
(トヨタ車は一般的にアクセルを踏まないと発進しないが、BMWやホンダは軽く足をペダルに乗せるだけでOK)
島は1周100kmで2時間半程なので15万キロを乗るのは本当に大変だろうと思った。(本土から連れてこられたのか?)
翌日朝3時半に起床、途中のお店で朝、昼の弁当を買い車で屋久島自然センターまで行き、始発の4時45分のバスに乗ることになった。
昨日までは荒川登山口に直接車で行けたのですが、今日からはバスに乗らなくてはならなかったのです。
真暗の中、45分で荒川登山口に着いた。
途中本当に狭い場所が多く、バスで良かったと思った。
ここでまず荷物を軽くする意味も有り朝食を食べ、5時45分にトロッコの道をひたすら2時間半程歩いた。
トロッコの終点になっている大株歩道入り口まで少し登坂の道を川を逆登るような形でダラダラ歩く。
途中何度か橋を渡るが、もの凄く大きな岩がゴロゴロしていて花こう岩の大きな壁に驚かされる。
又、その水の綺麗な事。
どこでも飲めそうな感じでした。
まあここまではとても順調だったのですが、この後が大変でした。
この大株歩道入り口から縄文杉までも2時間半程なのですが、最初に「心臓破りの坂」が有ったのです。
後から聞いたのですが60才を過ぎている人は質問を受けチェックされるのだそうです。
又、今回ガイド代がもったいないと頼まなかったのが良かったようで自分のペースで休むことが出来ました。
それでも3回ほど心臓が破裂しそうになり、ひょっとしてこれで自分も終わりかなと思ったのでした。
腿(モモ)が痛く脚が上がらなくなってしまいましたが何とか翁杉→ウィルソン株→夫婦杉→大王杉→縄文杉と回って帰って来ることが出来ました。 (腿って素晴しい字ですね)
そして縄文杉の近くで屋久島固有種の「鹿」を見ることが出来ました。
小鹿と思っていたのですが島の大きさに合わせたのか、これで大人なのだそうです。とにかくめったに見れない妖精なのだそうです。

   

   

     

    

   

    

    

民宿に戻ったのは午後4時過ぎでした。
足には血豆、モモは曲がらず、腰も痛く散々でしたが、一生に一度の思い出となりました。
あれだけ厳しい道だったので何千年という杉が残ったのだと良くわかりました。
又、島全体が一枚の大きな花こう岩のような気もします。

屋久島に 心おどらせ 晴願う
世界一 縄文杉は 雨の中
苔の水 縄文杉の ゆりかごに
雨の音 縄文杉の 子守唄

今回は運良く晴れた日が続き全体的に水量が少なかったようですが、至る所に滝があり、自然の厳しい面を見せつけられました。
連休中に毎日縄文杉を見る人は200人~400人程だそうですが、それが精一杯のような気がします。
縄文杉は5年程前にNHKで再生プロジェクトをやっていたまんまの姿で、上の枝には新芽も出ていて元気そうでした。
木の幹に触れられないのはとても残念ですが、一度見る価値は有ると思います。
山登りが趣味の人か体力によほど自信が有る人以外無理しないほうが良さそうです。
普通山道は帰りは往きの半分ぐらいで戻れるのですが、ここではすれ違いが出来ないのでほぼ同じ時間がかかります。

翌日もトレッキングに行く予定でしたがとても坂道を歩いたり出来る状態ではなかったので屋久島一という町営の「尾之間温泉」にゆっくり入りました。
地元の人は無料で町民以外は1人200円という安さで単純硫黄温泉なのでとても良いお湯でした。
ここは屋久杉以外ではお勧めNO1です。
世界自然遺産の厳しさを思い知らされたのと、もう2度と縄文杉に会え無いと思う記憶に残る旅でした。

オワリ


 

2年ぶりの神代桜
2009年04月11日 

「万難を排して」から2年、先週実相寺の「神代桜」を見て来ました。
お客様をご案内する為に前日に泊まって朝「見晴駅」へ迎えに行き自分も楽しんで来ました。
泊まった宿はとても古くこんな感じでした。

虫と寝る 一夜の宿は 長い夜
虫の宿 人はこそこそ 部屋の中


甲斐駒ケ岳と八ヶ岳に挟まれた素晴しいロケーションでした。

   

前日に娘が2度目の乳腺ガンの手術をして会社を1日休んだのですが、ほとんど眠れなくて睡眠不足で出かけました。

我慢する 術後の犬と 添い寝する
富士山に なりそこねたり 八ヶ岳

昼は長坂に有る「月舎」(つきや)に久しぶりに行きました。
蕎麦はとっても進歩していて自然の恵みの水と空気の味がしてとてもも美味しく頂きました。

   

月舎そば 水と時間が 口の中

神代桜は残念ながらピークを過ぎていて少し葉桜となっていて回りの、勢いの有る桜達に少し押されぎみでした。

   

   

住職の奥様が「私がお嫁に来た時は1800年ぐらいと言われていたのですが」と言われたので、すかさず「じゃ奥様は200歳ですね」と皆で大笑いした。

花散らす 老木の友 すでに亡く
1年を 10日で過ごす 桜かな
花筏 どこへ行くのか 風まかせ
夏来ると 桜はらはら 土の上

オワリ


 

 

桜は咲いたけど
2009年04月10日 

今年も例年通り桜が咲き、東京では今週(6日)がピークでもうすぐ桜吹雪となりそうです。
地球温暖化のせいで今年の桜は例年になく早く開花するとマスコミは言っていたのに蓋を開ければ例年と変わりなくむしろ遅いくらいであった。

4月から新人が入ってきたが今年は異例の事がたくさん有った。
通年は12月で来年の4月採用のメンバーは決まっているのに何と4月3日まで面接をやって見ました。
予想外に多くの学生からの応募が有ったのと海外の優秀な学生が(9月とか12月卒業)いるのでは無いかとの期待も有ったのです。
特に4月3日に1人で来た女子学生はその日から入社させ、新人教育を受けさせその日の夜の新人歓迎会にも出させた。
その時は特別優秀と思ったわけでも無いのだけれど何か縁を感じたのと、人生こんな形で入社出来る人はきっと大化けすると勝手に思った訳です。
結局新人4人と中途1人が入社しました。
その人達がどうなるかは本人の努力次第と言いたい所だけど、社員としてできる限りの事はしてやりたいと思う。

4月3日(金)に社員からの赤い万年筆のお礼と新人の歓迎会を兼ねてブロードの前の住所近くの青山墓地の桜を見て、良く知っている古いお店(水瓶屋)の2Fを借り切って参加できるメンバーだけでとりあえずお礼の会をスタートさせた。

   

驚いたのは金曜日の夜桜見物と言うと青山墓地は足の踏み場も無いくらい人でごった返していると思っていたらいつもの墓地の佇まいで本当に静だった。
又、お店も1週間前の予約でOKだったので昔ではまったく考えられなかった。
又、全員の盛り上がりが凄く(新人パワー?)2次会の為に渋谷の40年程やっているカラオケ屋(ドンの館)に電話したら「20人OKです」と言う。
実際に行くと4人(1組)しか居なかった。
カラオケ屋のご夫婦も「本当に暇なんですよ」と言っていた。
いつ廃業してもおかしく無い雰囲気が感じられた。
確かに街の中で廃業しているお店も多く、ビルの空きもかなり目立つようになって来た。
100年に1度の恐慌ならば誰も目にした人はいない訳だから自分自身でも理解するのは難しいのは当たり前だと思う。
毎日息をしているともの凄いピンチと、もの凄いチャンスが入り乱れているのが良くわかる。
まるで縞馬の縞のような気がする。
どこがピンチでどこがチャンスかがとてもわかり難く、そんな意味ではTOPの力量が真に問われている面白い時間だと思うのです。

話は飛びますが、4月の新人入社の為狭い社内を何とか席をやりくりして、姫野の前に4人の新人を座らせた。
1日目に自分の席が全体をとてもよく見渡せることが分かった。
40人程度だがどんな顔つきをして何していて何をしていないかが手に取るように分かるのである。
こんな事は初めてだったのでとても自分に取って参考になった。
個人として今まで自分自身の気持ちを変える為に16回も引越しをして来たが、仕事に関して席を変えるとか部署や、会社を変わる事はとても大切なことだと再認識させられた。
中にはモチベーションが落ちる人もいるのかもしれないが、自分は変化を楽しみ、それをバネに出来ると確信しているからかも知れない。

毎年同じ様に咲く桜のようなのだけれど、毎年の違いを見せられるような強く面白いブロードとなりたいと思うのでした。

コップ酒 桜を映す 暇もなし
桜の木 人を見る目が 肥える春
どこまでと 説明探る 入社式
入社式 聞いてわからぬ 顔並ぶ
人を見る 力がついたと 桜言う
春風に 散り際寒し 人の波

オワリ


 

赤い万年筆
2009年03月31日 

先週末に社員に担がれて全員の会議の後に上野の桜を見て食事会をしようと言われ、危うく姫野の誕生日直前で「チャンチャンコ」を貰うところだった。
上野の桜もほとんど咲いて無く、寒いところが嫌だったので時々利用している上野の「守 よし」(鳥割烹)の2階を貸し切って小宴会を(25人程)やった。

   

毎度、料理も美味しく楽しくそろそろ終りの頃にいきなり還暦のお祝いと言われて社員全員のサインと「人生の鏡として 現役で躍動される事を 心より祈念いたします」のメッセージ付きで赤い万年筆を思いがけず頂いた。

あまりの大サプライズに面食らったが、本当に嬉しかった。 このペンで川柳を書くのはなかなか難しいと思われるが(スペースの問題で)、1日5句を超えるペースで現在327の句まで出来ている。


サプライズ 赤い万年筆 来た日かな
還暦の朝 何も変わらず 何もせず
ワシントン 桜吹雪と 春の雪
常連の つもりのはずが 店じまい
ふぐ食べて 左々舎の猫は 長寿なり


84歳になる母親から「おまえが還暦だなんて」「とても信じられない」と何度も言っていたのが何とも可笑しかった。
多分自分の年をまだ認識していないのではと思われた。

社員の前では「明後日に58歳になる姫野です」と言っては見たものの(60歳を前にして1歳づつ若返る計算)何とも言えない気持ちでした。

話は飛びますが、還暦は昔から「本卦帰り」と言って子供に戻る訳でもないのですが最近読んだ講談社の文芸文庫4冊はとても面白かったです。
その昔読んだ事が有る本がほとんどでしたが昔のイメージと全く異なっていた事も多く有りました。
又、その作家達のバラエティに富んでいる事。

①日本の童話名作選 明治大正篇
巌谷小波(1870・6・6~1933・9・5)尾崎紅葉(1867・1・10~1903・10・30)
泉鏡花(1873・11・4~1939・9・7)国木田独歩(1871・8・30~1908・6・23)
押川春浪(1876・3・21~1914・11・16)与謝野晶子(1878・12・7~1942・5・29)
菊池寛(1888・12・26~1948・3・6)芥川龍之介(1892・3・1~1927・7・24)
有島武郎(1878・3・4~1923・6・9) 島崎藤村(1872・3・25~1943・8・22)
武者小路実篤(1885・5・12~1976・4・9)佐藤春夫(1892・4・9~1964・5・6)
吉田絃二郎(1886・11・24~1956・4・21)室尾犀星(1889・8・1~1962・3・26)
竹久夢二(1884・9・16~1934・9・1)
②日本の童話名作選 昭和篇
江口渙(1887・7・20~1975・1・18)内田百閒(1889・5・29~1971・4・20)
川端康成(1899・6・14~1972・4・16)千葉省三(1892・12・12~1975・10・13)
横光利一(1898・3・17~1947・12・30)宮沢賢治(1896・8・27~1933・9・21)
林扶美子(1903・12・31~1951・6・28)太宰治(1909・6・19~1948・6・13)
下畑卓(1916・1・30~1944・4・10)椋鳩十(1905・1・22~1987・12・27)
新美南吉(1913・7・30~1943・3・22)国分一太郎(1911・3・13~1985・2・12)
大佛次郎(1897・10・9~1973・4・30)坪田譲治(1890・3・3~1982・7・7)
平塚武二(1904・7・24~1971・3・1)室尾犀星(1889・8・1~1962・3・26)
岡本良雄(1913・6・10~1963・2・6)斎藤隆介(1917・1・25~1985・10・30)
壺井栄(1900・8・5~1967・6・23)
③日本の童話名作選 戦後篇
石井桃子(1907・3・10~)前川康男(1921・12・25~2002・10・14)
今西祐行(1923・10・28~2004・12・21)大石真(1925・12・8~1990・9・4)
筒井敬介(1918・1・3~2005・1・8)寺村輝夫(1928・11・8~2006・5・21)
中川李枝子(1935・9・29~)小沢正(1937・9・27~)
今江祥智(1932・1・15~)岩崎京子(1922・10・26~)
松谷みよ子(1926・2・15~)山中恒(1931・7・20~)
井上ひさし(1934・11・16~)山元護久(1934・9・19~1978・4・22)
長崎源之助(1924・2・19~)佐藤さとる(1928・2・13~)
宮川ひろ(1923・3・15~)安房直子(1943・1・5~1993・2・25)
あまんきみこ(1931・8・13~)神沢利子(1924・1・29~)
庄野英二(1915・11・20~1993・11・26)立原えりか(1937・10・13~)
④日本の童話名作選 現代篇
別役実(1937・4・6~)野坂昭如(1930・10・10~)
阪田寛夫(1925・10・18~2005・3・22)舟崎克彦(1945・2・2~)
山下明生(1937・3・11~)皿海達哉(1942・2・25~)
竹下文子(1957・2・18~)舟崎靖子(1944・5・17~)
灰谷健次郎(1934・10・31~2006・11・23)三木卓(1935・5・13~)
三田村信行(1939・11・28~)角野栄子(1935・1・1~)
那須正幹(1942・6・6~)柏葉幸子(1953・6・9~)
川島誠(1956・9・18~)矢玉四郎(1944・2・3~)
森忠明(1948・5・11~)池澤夏樹(1945・7・7~)
内田麟太郎(1941・2・11~)江國香織(1964・3・21~)
末吉暁子(1942・8・27~)斉藤洋(1952・7・16~)
森山京(1929・7・10~)岩瀬成子(1950・8・25~)
岡田淳(1947・1・16~)村上春樹(1949・1・12~)

童話は作家の本当の姿を写し出す鏡と思うのですがいかがなものでしょうか?
皆様も是非お読みになりませんか。

オワリ


 

万福寺に行ってきました
2009年03月18日 

関西の方は詳しいのかもしれませんが、先日「黄檗山万福寺」へ行ってきました。
「人の交わりは飲食によって深められる」と語った1661年中国の明より招かれた「隠元禅師」が建立したものとして知られています。
事の発端は「坂口安吾」の「風と光と二十の私と」の中の「女占い師の前にて」に万福寺の素晴しさと、精進料理の「白雲庵」についてかなり長い記述が有ったからです。

坂口安吾と言えばダダイズムの権化見たいな作家でとても尋常な人で無いような感じがするのですが、この一冊はとても彼の「風と光」を感じさせられる一冊でした。
近頃それなりの作家の晩年の随筆などにとても興味を惹かれる。
年代的には少し幅が有るようですが、人間の酸いも甘いも知った人達の本音を感ずることが出来るような気がしてとにかく面白い。
自分がそんな年代になってきたのだと思うが、随筆に出て来る所をインターネットで検索して有ればすぐに行きたくなる。

それで先週京都からJRで20分程の「黄檗」まで行き、入園料500円を払って万福寺の見学ルートの№順に見て来た。
まだ350年程しか経っていないせいか、あちこちに中国の名残りがある。

   

   

万福寺は日本で初めての孟宗竹が植えられた所だそうですが、木魚の原形の開版(魚鼓)も何となく中国の魚のような気がする。

謹白大衆
生死事大
無上迅速
各宜醒覚
慎勿論放逸
と開版を叩きながら声え高らかに唱えます。

予約した「白雲庵」に荷物を預け大幅に時間を超えて見学して帰ってきた。
シーズンオフでとても空いていて落ち着いた中で黄檗「普茶料理」を堪能した。

   

   

外の孟宗竹に十姉妹(ジュウシマツ)が楽しそうに遊んでいた。 梅も終わりのノンビリした1日でした。

 

食文化 仏法よりも 価値有ると
万福寺 支那の香漂う 孟宗竹
欄茶出す 黄檗普茶は 支那の味
隠元を 思い出させる 白雲庵

オワリ

 

 

さよならスコット
2009年02月15日 

来月でいよいよ大台に乗るというので本人としてはかなり様々な事を考えたのと、いよいよ仕上げの時が近く、残りの時間が少なくなって来たという気持ちも強くなって来て50歳になった時とは全く違った気持ちでいます。
昨年夏頃からずっと心の底流に在って、つかみ所も無いし、形も見る事も出来無いのだけれどだんだんたまって行くドロのような気がしてます。
台風でも来て一切合切洗い流してくれないかとも思っています。

正月明けに前の会社の上司と新年会をやって目が覚めた。
なんと、その方は75歳でスキーの2級のテストを今年受けるのだそうです。
(小生は20歳で2級を取ったままです)
しかも今週末からチューリッヒに2週間出かけてスキーを楽しんでくるのだそうです。
さぞスキーは小さい時からやっていて得意なのだと思ってたら、なんと70歳から始められたのだそうです。
先日初めてスキーを教えてもらった先生に今度2級を受けると言ったら「貴方のようにひどい生徒は今まで初めてでした。おめでとう」と言われて大変驚かれていたとあっけらかんとした顔をしていました。
又、年末にご夫婦で人間ドックに行かれた時も奥様にどんな結果で有ってもこのチューリッヒへは万難を排して行くと宣言していたのだそうです。
まったく驚きと言うか美味しいフグも色あせてしまう程でした。
まぁこんな上司がいたから自分もこんな人間になったんだろうと納得が行った。
57歳から始めた乗馬も本当に楽しいのだけど、これからの年齢を考えると近頃それだけでは限界を感じ何かをしなくてはというあせりがかなり有りました。

乗馬は自分で絶対に落馬しないということでやっているせいか後から始めた若い人達にどんどん追い抜かれてしまう。
「ええなんであんなヤツに」と思うことも多いのだけれど、良く見ていると落ちる事に対する恐怖心が若い人達にはまったく無いようだ。
スキーも転ぶ事で覚えると良く言われるのだから当たり前かもしれない。
まして、生き物の背に乗っている訳ですから考えられない事が起きることは当然なのです。
でも乗馬を始める前にとにかく仕事に影響する事は絶対にしないし、骨折などもっての他と心に固く決めてスタートしたのです。(スキーを24歳で止めたのも同じ理由でした)
良い馬を選んでいた事も有り、おかげ様で今のところ一度も落ちる事無く楽しく乗って来ました。
ところが、自分が入会している「東京クレイン」が今年に入っていきなり3級の資格が無いと自分が今まで楽しみにしていた良い馬を指名出来無いと言って来たのです。
その内の一頭がスコットだったのです。

   

乗馬を始めてどうしても駆足がうまく行かずクラブで勧められたのがスコットでした。
最初はそれ程高い(一鞍の指名料金)馬で無かったのですが、競技会で優勝したりして一番高い馬になってしまったのです。
それでも競技会があったり、故障があったりして月2~3回しか乗れないのですが、拍車でなくふくらはぎの筋肉の動きを感じて動いてくれる馬なのです。
それがわかった時の感激は何事にも変え難いものでした。
それが2月の予約を取る段になっていきなり受付が「スコットは取れません」と言う。
それも12月の予約がスコットの競技会の為に延長された為残っていた時間だったのです。
受付の女の子では埒が明なかったので責任者を出せと言ったらS君が出て来たのですが説明がひどくついかっと来て怒鳴りつけてしまった。
このS君とはどうも相性が悪く彼が指導員をしている時は自分の気持ちに負けてるようでうまく乗れなかったのです。
そんな事が有り、1月末に3級のテストを受ける事にしました。
個人レッスンも受けて万全だったと思っていたのですが、試験当日何とそのS君が急遽副審を勤めることになったのです。 ここで半分はダメだと思った反面何クソと言う気持ちにもなったのとひょっとしてこれが最後のスコットかなと思ったのです。
そんなこんなで実技の時はかなり上がっていたようであっと言う間(4分程)に終ってしまいました。
半分はOK、半分はダメと言う気持ちだった。
2月上旬に発表が有り、3人が落第だった中に入っていた。
後で家内に言ったら「当たり前でしょう」とにべもなく言われてしまった。
結局2年間も乗り続けたスコットは指名出来無くなり別の馬に振り替えらざるおえなくなった。
馬の振り替えを受付の女の子が出来なくてS君がやってくれたので「何が悪くて落ちたのか今後の為に教えてくれ」と言ったら何と建前論で「姫野の此処と此処を直したら良いですよ」なんてアドバイスは一言もなかった。
なんとなく「さよなら東京クレイン」と言う気持ちにもなったが、上に行く事を辞めてノンビリ楽しまざるおえないことになったことを喜ぶべきだと考えるようにもなった。
確かに「東京クレイン」のおかげで考えもしなかった乗馬に2年間没頭し、何と30年来のひどい腰痛が嘘のように治った。
年間20~30万円もカイロなどで使っていたのが0円になったのです。
また、5年前に左大腿部から神経を抜いた大手術のおかげで左足にほとんど力が入らず少し疲れると左足の上がりが悪く躓くことが多かったのも100%ではなくてもかなり改善された。
しかも片目で身体のバランスを取りながら馬に乗るのも最初は難しかったのもかなり改善され慣れて来た。
又、ウエストも3cm程細くなった。
良い事ずくめで、しかも馬の暖かさを充分に感じることも出来た。
乗馬のレベルは現状のゴルフで言うとやっと100を切れる所まで来ていてゴルフで言う、一番面白いところなのかもしれない。
確かに1000人以上の会員がいて次々と新しい会員が入ってくる現状を見ると小生のようなタイプは卒業すべきなのかもしれない。

ここで最初に戻るのですが「これは天の声」だ。
自分の年齢から先が見えている乗馬より死ぬまで続けられる事を何かやろうと思い始めた。
(乗馬は楽しみとして車の免許と同じく限界までやりぬきます! )
とは言いながらずっと考えていてなかなか見つけられなかったのですが、とにかく「思い立ったが吉日」で2月10日より1日5句川柳を作ることにした。
川柳であれば他にやることが見つかってもまだまだ続けられるかもしれないと思い、10日は仏滅なのだけれどスタートさせることにした。
最初の駄作は

馬の目に 虜にされた わが身かな
犬枕 しているつもりが 人枕
梅の花 見た木蓮が 綻びる
蕎麦啜る 音は落語の 落とし物
蕎麦がきは ツルンと丸く 正座する

来年の2月9日までに1825句を目標に頑張り続けます。
その間に次の新しい趣味を是非見つけたいと思うのです。
(実は昨年何回かピアノにチャレンジしたのですが、座っていると腰が痛くなり断念したのです)
読者の方々からのユニークなアドバイス是非お願いいたします。

オワリ

追 最近講談社の文芸文庫に嵌ってます。
値段は通常の文庫の二倍程するのですが、明治、大正、昭和の作家の残した作品を現代仮名使いとし、しかも難しい字に振り仮名が加えられているのです。
昔読んだ難しい言葉の日本の文学をとても読み易くしているのです。
又、紙質がとても良くなっていて特に表紙は水に強く、お風呂で読むには持って来いなのです。
やっと10冊程読みましたが、全部読破したいと思っている程です。
その中で高浜虚子が正岡子規を描いた「柿二つ」は久々に自分に眠っていたものを起こしてくれた。
正岡子規が脊髄カリエスになってからの日々の生活や子規の人生に対する真摯な心や言動を赤裸々に書いているのです。
それが、弟子として書いているのではなく冷徹な目で自らも厳しく書いているのです。
誰が書いているのか迷うことも有るほどなのですが何となく思い起こすことが出来る45年前ぐらいに読んだ記憶とはまったく違う感覚でどんな冷酷な状況でも人間を見失うことなく生きることが出来る凄さを教えられました。
子規慕う 虚子の想いや 柿二つ

是非皆様も一度お読み下さい。

 

以上

 

 

2009年は「至福の年」に
2009年01月27日 

毎年、新年と思うことが少なくなり、過去を振り返る余裕も無く前を見て走っていることが多く、基本的に「嫌だなぁまた年を重ねてしまった」というのが偽らざる本音です。
特に昨年後半から様々な事象があまりに早く変化してしまうので1ケ月が10年程に感じられるような気がします。
時間とは本当に誰が発明したのだろうか?
地球だけの、否人類だけの取り決めなのだろうか?
なんて変な事を考えてしまいます。
年末の31日に外苑前のいつも行く「理髪店」の帰りに表参道まで歩いて交差点の角の狭い本屋で時間潰しと思って偶然目に留まった有名な数学者「岡 潔」の「春宵十話」を立ち読みしていたらあまりに面白くてしかも500円なので買ってしまった。
40年以上前の古い本なのに現在の若者像にもぴったりあてはまる話が多く、人間はいつまで経っても同じ事の繰り返しが多いのかとつくづく考えさせられた。
この年になって(Uターンで3月で58才、来年は57才の予定です)若い頃考えたり悩んだりした事が嘘のように色々な事が見えてきた。
今の精神状態や頭の能力が18才頃に有ったら自分も最っと良い人生を送れたのだろうと思うのです。
何か時間を無駄に過ごしてきたような気がしてなりません。
たくさんの本を読めば読むほど人間て同じ事を考えたり悩んだりしている人々が本当に多いと思う。
でも、それで世の中が少しは良くなったかと言うと、いつもと少しも変わらない故郷の山々 のように泰然自若と鎮座しているような気がするのです。
何千年の昔から人は最後の仕上げの時に差こそ有れ同じ事を考え同じように死んで行くのが定めなのでしょう。
最っとも若い人は「知らない事」を知りたい欲求が有るからこそ新しい発見や一見無駄と思える事にもチャレンジできるので、年寄りの能力をそのまま引き継げるとしたら「楽しい事」は極端に減り人類の進歩も無くなってしまうに違い有りません。

話は飛びますが、昔の戦いは悪い事ばかりではなかったのだと思うのです。
今日のように異常に進歩した武器を使わなければ文明や文化の進歩や交流にとても役に立ったのだと思うのです。
血を流すことで新しい血が人々に入り、強い人間が作られて行ったのだとも考えられるからです。
歴史的に見れば大恐慌の後、人類の得意な戦争と言う時代に入って行くのではと思ってます。
ただその戦争が最近のような相手を滅ぼす為だけに武器を使うのでは無く「知恵」を使う新しい戦いに変えてほしいと思うのです。
このまま行くと人類滅亡まで1万年は無いかもしれません。
その大切な時間が今だとしか思えないのです。(少し大袈裟かな?)
そんな流れの中では人類は種の滅亡の階段を確実に登っているのだと考えています。
種である以上この階段は絶対に無くならないのです。

こと、自分に戻るとあまりに小さくなるのですが、昨年を振り返ると仕事ではお客様から御紹介いただいた新しい会社と契約が出来、この業界にやっと恩返しが出来ると確信することが出来ました。(ブロードを20年続けてきた証のようです)
食べ物では四谷三丁目に有る1日1客しか取らない茶懐石の「大埜」へ行った事と、山口瞳がこよなく愛したという神田明神下の「左々舎」です。
特に「左々舎」は会社から歩いて10分程の為良く利用してます。
冬は「河豚」、春は「鯛」、夏は「鱧」で4客程しか入りませんがいつも時間がゆっくり流れとても居心地が良いのです。(同じホームページで2008年10月10日「予約が必要ですが」を御覧下さい)

残念ながら昨年はたくさんのお店が廃業してしまい時代を感じていたのですが、自分の努力が足りない事も再認識しました。
又、足で努力してミッシェランなどに載らない自分だけの名店を捜したいと思います。

回りの雑念や雑音を物ともせず、世界経済がどう有れ自分だけのゆったりとした時間を取り戻し、2009年を「至福の年」にしたいと思います。

追) 昨年食べ残した京都「出町ふたば」の塩大福を頑張って(?)1/19(月)に京都まで行って食べてきました。
私の期待が大きくなりすぎてたせいか、自分の中でてっきり抹茶に合う物との想像がたくましくなっていました。
所が餅々した素朴な塩大福でなく豆餅でどう考えても「ほうじ茶」に合う3時のおやつといった感じでした。
お腹にしっかり入る感じで1つで充分だったのですが、これが最後かもしれないと3つも食べてしまいました。
(1個160円です)
ご報告まで。

オワリ

 

 

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