田舎(富山)の高校を卒業して東京で浪人生活を始めて46年。 大学を卒業して会社勤めを経て独立して26年。IT業界に入ってあっという間の40年でした。そんな中縁あって青山から本郷に事務所を構えることになったのも何かの力が働いたような気がします。 三畳一間の東京での浪人生活で今でもよく覚えているのが東大の赤門とその中の「三四郎池」でした。その当時は本当に田舎者で、東大へ入ったら野球を、早稲田に入ったらラグビーをとしか考えていなくて別に真剣に勉強していたわけではないのです。翌年初めて慶応大学の受験をしました。まるで「巨人」「大鵬」「玉子焼き」を地で行っていたのでした。 35年ぶりに見た「三四郎池」はとても大きく立派になったような気がしています。そういえば赤門もとても手入れをされていて驚きました。 17年いた青山から本郷へ移ったのを記念して自分のホームページを作り、これからの自分のミッションは何なのか?何をなすべきなのか等を試行錯誤しながら皆さんと楽しみたいと考えています。 今の私のミッションは4つ程あると思っています。 1つ目は日本のソフトウェアパッケージを世界に輸出すること(現在3社程の製品をスタートさせています。) シンガポール・シドニー・アメリカなどで 2つ目は日本の内部セキュリティのシステムを確立し日本に定着させること。 3つ目は50歳以上の人の新しいビジネス活動や就職活動を支援するシステムを確立すること。(基本的に手弁当で成功報酬型とする) 4つ目は日本型の新しいビジネスのモデルを作り従来の一攫千金や創立者のメリットだけを追及するシステムでは無く、長期で安定型の方式を確立する。 現在は、様々な形で多くの人の応援を得て遅れ遅れながら、少しずつ前へ進んでいると思っています。 人生50半ばにして、やっと目から鱗が落ちるようなことがたくさん有って、自分を生かすことと人を生かすことが同じで有り、両方が大切だと再認識したわけです。 まず私の自己紹介をしばらく続けたいと思います。 読まれた方々も多いと思いますが「BROADWAY LETTER」に自分で書いたものを紹介させていただきます。 まず最初ですがブロードを創立した翌年に出しました創刊号より(昭和63年) ブロードの3つのキーワードと表Ⅳの言葉「サミエル・ウルマンの詩」を紹介させて頂きます。 昭和62年3月3日にブロード・システムエンジニアリング創立しましたが、まだ何の仕事をやるか、誰とやるか、右も左もわからず1年間開店休業の状態でした。会社も西麻布のワンルームに有りました。
次に平成5年に書いた「近頃思うこと」と表Ⅳの言葉を紹介します。 会社を作って7年目に入りやっと本業の「運用ソフトウェアの輸入販売サポート」が軌道に乗り始めた頃でした。これで何となく生き残れるような気がした時でした。
次は平成7年に書いたのですが、会社も10年となりブロードとしては一番良い年だったかもしれません。
次は平成9年に書いた物2点ですが両方とも今までの「10年これからの10年」を考えていたものでした。
最後に平成13年に書いた物ですが、私が目の手術をして片目の動的視力を失われたせいか、会社も15年が過ぎているのにとても薄っぺらで典型的な零細企業の儚さを見せ付けられました。 亡くなった瀬古さんの言葉を改めて噛み締めつつ、新たな会社の創造を行うべく会社名もブロード・システムエンジニアリングからブロードに改め人身を一新(心)したのでした。
ようやく今年3月3日に20年目を迎えることができました。 2000年の神代桜とともに祝えたのがとても嬉しかったと思います。
これからの10年をしっかりやって行きたいと思います。
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